聖書メッセージ15「希望」という言葉

第15回「希望」という言葉

最近、「希望の党」という新政党が結成され、政界再編成の起爆剤として、話題の的となっています。  「希望」という言葉で思い出すのは、ギリシャ神話の「パンドラの箱」です。「パンドラ」(ギリシャ語で「すべての贈り物」の意味)の箱が明けられると、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪といったありとあらゆる災いが飛び出してきたが、「希望」(エルピス)だけが、残っていたというものです。

実はこの神話には二つの解釈があります。一つは、「希望」は、それが出てくると人々に必ず失望を与え、幻想を振りまくので、災いの中でも最も大きな災いである、したがってそれが箱の中に留まったことは、まだ幸いであり、人は希望なしに人生を諦観して生きることが大事であるいう解釈です。人は、根拠のない希望を抱くがゆえに、それだけ深い失望の淵に沈むことになるというのです。しかし、人は、「希望」なくして生きていくことができるのでしょうか。  「パンドラの箱」のもう一つの解釈は、ありとあらゆる災いが生まれ、世界が苦難に満ちているとしても、それを克服する「希望」は必ず現れるというものです。筆者としては、この解釈を支持したいと思います。オーストリアの精神科医フランクルは自分自身の体験をもとに、アウシュビッツ収容所の囚人たちの心理状況を鋭く描いた『夜と霧』を書き、ベストセラーになりました。収容所でいちはやく精神的に崩壊した人々は、「希望」がなく、刹那的に生きていた人々であったのに対して、過酷な身体的・精神的状況を生き抜くことができたのは、「希望」をいだいていた人々だというのです。

聖書では「希望」が「錨」(anchor)に譬えられています。船舶が港に着き、錨をおろすと、たとえ嵐が来ても、大雨が降っても漂流することはありません。もし錨を深く下ろしていなければ、船舶は、嵐や雨に耐えることができず、流されてしまい、難破してしまいます。私たちの人生もそうです。「希望」がなければ、私たちの人生は、方向が定まらないばかりか、どこにいくかわからず、様々な苦難や試練に耐えることができません。遂には漂流し、難破してしまうのです。

聖書の示す「希望」は、錨であるイエス・キリストにあります。 キルケゴールというデンマークの哲学者は、彼の著書『死に至る病』の中で、「死に至る病」は「絶望」であり、「絶望」とは、人間が神を無視して、神から離れていること、神との交わりが絶たれているいることにあると断言しています。神によっていのちを与えられ、神によって愛されている人間が、神に立ち帰り、神の愛に生かされて歩むことが、人間の本当の幸いだというのです。しかし残念ながら、私たちと神との間には罪という乗り越えることのできない壁があります。人間の力でこの壁を打ちこわすことはできませんが、神の子イエス・キリストが、私たちの罪を負って十字架にかかり、この罪という壁を打ち壊し、神に帰る道を開き、神と私たちとの唯一の架け橋になってくださいました。そしてイエス・キリストは十字架で死なれましたが、三日後に墓を打ち破って復活され、今も生きておられる方です。聖書は、このイエス・キリストを救い主として信じるものは、罪が赦され、永遠のいのちを与えられると約束しています。ここに死を超えた真の「希望」があります。そして、「錨」であるイエス・キリストにあって、もはや漂流することのない、揺ぎ無き人生の土台が与えられるのです。

「彼(イエス・キリスト)に信頼するものは、決して失望させられることがない」(Ⅰペテロの手紙2:6)

皆様もイエス・キリストにあって、真の「希望」を見いだされるようにお勧めします。大津集会は、毎日曜日に聖書をわかりたすく語っています。皆様のご来訪を心から歓迎いたします。

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