聖書よりキリストの愛と救いをお知らせする大津キリスト集会(教会)

聖書のことば|12月

“すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは、彼らに言った。「恐ることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそキリストです。」”
(ルカの福音書2章9〜11節)


“An angel of the Lord shone around them,and they were terrified.But the angel said to them.「 Do not be afraid.I bring you good news of great Joy that will be for all the people.Today in the town of David,a Saviour has been born to you. He is Christ,the Lord. ”
(Luke 2:9〜11)


聖書メッセージ 26

「日常的不安と実存的不安」


聖書メッセージ 私たちには、いつも不安がつきまとっています。絶えず不安を抱きながら生きているのです。私たちが抱く不安とはいかなるものでしょうか?不安には二種類あります。一つは「日常的不安」であり、もう一つは「実存的不安」です。多くの人が普通抱く不安とは、「日常的不安」です。

 ここには、人間関係の悪化ないし破綻から来る不安、ないしそれが起こるのではないかと危惧する不安、病気の不安、失職の不安、老後の経済的不安などがあります。金融庁の審議会が出した報告書は、社会に衝撃を与え、不安を拡散いたしました。老後の生活を維持するためには、年金の他に2000万円の蓄えが必要であるという指摘です。この報告書は、公的年金制度に対する不安を助長したのです。
 しかし、たとえこうしたすべての不安が、医療技術の進展、社会保障制度の確立、経済成長と完全雇用によって克服できるようなバラ色の社会が到達したとしても、実は私たちのもっと深刻な、内なる不安は解決できないのです。その不安こそ実存的な不安です。この不安は、日常的不安よりも深い人間の実存から生まれてくるものであり、意識されないこともあります。この不安があたかも存在しないかのように、自分を偽っていきることもできます。ドイツの神学者パウル・ティリッヒ(1886-1965)は『生きる勇気』の中で、この実存的な不安について詳しく触れています。

 第一は、死の不安です。死によって自分が今まで築き上げてきた業績が、ガタガタと音を訪ねて崩れていくのではという不安があります。また自分の存在そのものがなくなくことに対する恐怖感があります。それに加えて、死んだあと、どこに行くのかわからないという不安があります。私たちは、どこから来てどこに行くのかという切実な問いに答えることができないのです。

  聖書は、死はすべてのものの終わりではなく、天国に至る門であると述べています。死を超えた希望があるのです。イエス・キリストは、人生の最後の瞬間においてイエス・キリストを救い主として信じた強盗に対して、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイス(天国)にいます。」(ルカの福音書23:43)と語られました。もっとも私たちは、人生の早い段階でイエス・キリストを救い主として信じ、天国に国籍を持つことができれば幸いです。

 第二の不安は、心の中にぽっかりと穴があいたようなむなしさ、虚無感です。それは何のために生きているかわからない、人生の意味がわからないことからくるものです。この点に関して旧約聖書の「伝道の書」は、「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」(伝道者の書1:2~3)と語っています。このむなしさから解放されるためには、私たちの創造者である神に帰る必要があります。パスカルは、人間の心の中には、「神の形をした空洞」があると書いていますが、私たちのこころのむなしさは、神との出会いを経験することによってのみ、克服されうるものです。聖書は、いのちの源である神に背を向けて、自分で人生にいきがいを作り出そうとする人間の愚かさについて次のように語っています。

 「私の民は二つの悪を行った。いのちの水である私を捨て、多くの水ためを自分たちのために掘ったのだ。水をためることのできない水ためを。」(エレミヤ書2:13)

 第三は、罪責感です。自分が犯したことに対する良心の呵責です。2011年の東北大震災を追悼するテレビのドキュメンタリーの中で、娘を津波でなくした一人の母親が、娘を守れなかったことに対して一生自分を責め続けておられる姿が映し出されていました。また戦時中、中国に出征し、戦後復員された方が、中国でしたことに対して罪責感にさいなまされて、誰にも心を開かず生きておられたが、イエス・キリストの十字架の罪の赦しを信じて、罪責感から解放されたという幸いな証を聞いたことがあります。自分を赦したいけれども、赦せない、いつまでも心が苛まされている状態は、この世の地獄です。このような時に大事なのは、権威ある者から語られる赦しの声です。聖書は、私たち一人一人に“私は、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐいさった。私に帰れ、わたしは、あなたを贖ったからだ。“(イザヤ44章22節)と天から声をかけられています。神はご自身のただ一人子イエスを十字架につけてまでも、私たちを愛し、罪の赦しの道を開かれたのです。

  以上、私たちは、三つの実存的な不安、つまり死への不安、生きるむなしさ、そして罪責感について考えてきました。日常的な不安は、社会や人間の努力によって克服できるかもしれませんが、この実存的不安は、どんなに努力したとしても自分で解決することはできません。
しかし、私たちはもっと積極的に実存的な不安について考えてもいいのではないでしょうか。つまり実存的不安は、私たちを生ける神との出会いに導くサインなのです。死への不安を覚えることによって、私たちは死を超えた希望を追求するようになります。人生のむなしさを経験することによって、命の源である神を渇いて求めるようになります。また深刻な罪意識をもつことによって、キリストの十字架における罪の赦しを心から感謝して受けいれることができるのです。聖書は次のように約束しています。

 “悲しむものは幸いです。その人たちは慰められるからです。”(マタイ5:4)
 日常的不安を抱き、それの解決を求めることは理にかなったことですが、それによって私たちの内にある実存的不安から目を離さないようにしましょう。
  大津集会では、日曜日の午後2時から、聖書の真理を学んでいます。いつでもドアをノックしてください。大歓迎です!
                      文責  古賀敬太


  • Facebook
  • Hatena
  • twitter
  • Google+
PAGETOP
Copyright © 大津キリスト集会 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.