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当集会では聖書からわかりすくお話をしております。初めての方も大歓迎です。また、マスク、消毒、換気、Social Distance を取るなどのコロナ対策を行っていますので、安心してお越しください。

聖書のことば|4月


天が地上はるかに高いように、御恵みは、主[神]を恐れるものの上に大きい。東が西から遠く離れているように、主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:11-12)
For as high as the heavens are above the earth, So great is his love for those who fear him. As far as the east is from the west, so far has he removed our transgressions from us. (Psalm 103:11-12)

聖書メッセージ41

クリスマス・キャロルと聖書ー私たちの過去、現在、未来

「人は変わることができるか」


人は自分が変わりたいと思っても、なかなか変わることはできません。逆に変わりたくないと思っていても、突然、全く新しい人に変えられる場合があります。デイケンズ(1812〜1870)の名作『クリスマス・キャロル』(1843年)に登場する主人公スクルージがその人です。彼はきわめて自己中心的で、もうけることしか考えていないエゴイストで、他人に冷たい人でした。したがって、誰からも愛されず、孤独で、寂しい人でもありました。その彼が、クリスマスの日に一瞬にして、他人に思いやりのある、愛の人に変えられるのです。一体何があったのでしょうか。

「私達の、過去、現在、未来」

人は、過去、現在、未来を生きています。現在の自分のあり方は、過去の出来事によって、また将来の自分の希望によって形づくられます。過去のさまざまな経験が現在の自分を形作り、将来への期待が現在の私たちの原動力になります。過去の経験、将来の夢が、現在の私に流れ込んでくるのです。現在の私のすがたは、過去と未来が集約したものです。スクルージの変化は、過去の自分の姿に想いを馳せ、将来の自分の行く先に恐れを抱いて、自分の現在の姿を悔い改めて、新しい人に変えられるのです。

「マーレーの警告」

『クリスマス・キャロル』では、「マーレー・スクルージ商会」の昔の共同経営者の血も涙もないマーレーが、鎖に繋がれた異様な姿でスクルージの前に登場します。マーレーは、彼が生きていた時にして来たことの報いとして、重い鎖で繋がれた囚人として登場します。マーレーは、スクルージが自分と同じ運命を辿らないように、警告に来たのです。
「私が今夜ここへ来たのは、お前さんには、まだ私のような運命から逃れるチャンスと希望があるということを知らせるためなのだ。」
そしてマーレーはスクルージの過去、現在、未来を伝える三人の幽霊(使者)が来ることを伝えます。この三人の幽霊は、スクルージに悔い改めを迫る神の使いのように思えるのです。スクルージに現れる三人の使者は、スクルージを過去、現在、そして未来のクリスマスに導きます。

「過去を示す第一の使者」

第一番目の使者は、「私は、お前を改心させるために来たのだ」と言い、過去のスクルージのクリスマスの時の姿を時系列的に見せるのです。最初に、使者が見せるスクルージは、クリスマスに、友達から仲間はずれにされて、ひとりぼっちで本を読んでいる子供の姿です。スクルージは自分の過去の姿を見て「かわいそうだ」といって泣くのです。次に少し大きくなったスクルージに彼のやさしい妹が寄宿舎にいるひとりぼっちのスクルージを馬車で実家に迎えに来ている光景が現れます。彼女は結婚して死にましたが一人残されている子供がスクルージの甥のフレッドなのです。フレッドはいつもクリスマスにはスクルージをクリスマスに招待しに来ますが、スクルージはいつも彼を冷たくあしらってきたのです。次にスクルージが大きくなって、奉公して働いていた商店に来ます。商店の主人であるフェジウイグが寛大に、奉公人のために楽しく豪華なクリスマス会を開いて、そこにスクルージも参加している姿が登場します。これを見て、スクルージは自分が今の奉公人のボブにいかに冷淡で、無慈悲であるかに心を刺されるのです。次に現れるスクルージは、血気盛んな青年で、このころになると性格が変わったように貪欲になり、自己中心的になっています。書物から引用してみましょう。
「再びスクルージの昔の姿が出てきた。今度は前より年をとって、血気盛んな男であった。その顔には、後になってできたようなきびしい、わばった表情は見えなかったが、気苦労の貪欲の色をそろそろ帯はじめていた。目付きにはおちつきがなく、あくせくとして、利益を求めているのが映っていた。すでに貪欲が根を張り、成長していく気の影がどこに落ちるかを示していた。」
彼はお金を儲けるという唯一の望みに自らの支えを見出しています。儲けながら、一銭も貧しい人や困った人、社会のために使おうとはしないのです。このように変わっていったスクルージに、婚約をしていた彼の女友達は次のように言って別れを告げて去っていきます。
「世間から侮られまいとする望みの前に、他の希望はすっかりお捨てになってしまった。 私はあなたの気高い向上心が一つづつ枯れ落ちて、とうとう、お金儲けという、一番大きな欲がすっかりあなたを占領してしまうのを見てきましたのよ。—
あなたは変わってしまったのです。約束をした自分のあなたはとはまるで別人のようです。」
人は良いように変わることができますが、悪いようにも変わることができ、変わっていく自分の姿にきずかない場合がほとんどです。
このように第一の使者によって過去の自分をまざまざと見せられたスクルージは、触れ合う人々の優しさとは対照的に、自己がいかに醜いかをいやという程知らされ、悔い改めに導かれるのです。人が新生するための第一の条件は、自分の真の姿に気づくことなのです。

「現在を示す第ニの使者」

第二番目の使者は、スクルージを部下のボブと甥のフレッドの現在のクリスマスに導きます。スクルージは、ボブもフレッドも、嫌われ者のスクルージのために、神に祈っている光景を見て感動するのです。スクルージはボブの家族にとっては鬼同然で、彼の名を口にしただけで、家族一同に暗い影がさすのですが、ボブはクリスマスの食事に前の祈りに、「みんな、クリスマスおめでとう! 神様、わたしたち一同をお恵みください」と祈った後、「スクルージさん! 今日のご馳走を下さったスクルージさんのご健康を祝します」とスクルージのために祈りを捧げるのです。ボブの家族にとっては、絶対に受け入れられない言葉でした。このボブの家族には、足が不自由で、長く生きられないテイムという坊やがいます。しかし彼はいつも教会に行き、聖書の言葉に勇気を与えられて、神を賛美しているのです。スクルージは、彼を見て、「この子が死ねば、余計な人口がへるので、その方がよいのではないか」と言ったことがあります。そのスクルージに、第ニ番目の使者は、次のように戒めるのです。
「人間よ、もしお前の心が石でなく人間なら、余計とは何であるか、どこに余計なものがあるかをはっきりわきまえるまでは、この悪い文句を差し控えるがよい。どんな人間を死なせるかお前に決められると言うのか。神の眼には、この貧しい男の子供何百万人よりも、お前のような人間こそ生きていく値打ちもなければ、生かしておくのにふさわしくもないのだぞ。——まったくとんでもないことだ。」
人の価値に対するスクルージの評価と神の評価は全く異なっているのです。

次に使者は、スクルージを甥のフレッドの家に導きます。フレッドは、スクルージを毎年クリスマスに招待しますが、スクルージはそのたびに招待を拒絶して来たのでした。フレッドは、「あの人が好むと好まざるとにかかわらず、ぼくはあの人に同じチャンスを与えるつもりだよ、気の毒でならないんだもの。あの人は死ぬまでクリスマスのことを罵るかもしれないけれど、少しは良い方に考えなおさざるにはいられまい。—–僕はあの人に挑戦するのだ。」と述べています。ここに、諦めないで、スクルージに寄添い、彼に対する愛の責任を最後まで果たそうとするフレッドの存在がありました。
スクルージは、第二の使者を通して垣間見た、フレッドとボブの示す親切と愛に感動し、対照的に自分の冷淡さと醜さに身震いするのです。

「未来を示す第三の使者」

第三番目の使者は、スクルージを未来の世界に導きます。つまりスクルージの死と墓場です。私たちが死んだ場合、人は私たちの死を心から悲しみ、その死を悼むのでしょうか、それとも口では言わないとしても、死んでくれてせいせいしたと思うでしょうか。スクルージの場合は後者でした。かれは、自分の死を誰も悲しまないどころか、血も涙もない、高利貸しのスクルージが死んでいいざまだと喜んでいる人々がいることを知り、驚愕します。彼は、誰からも顧みられることなく、孤独に中で、憎まれて死んでいく自分の未来の姿をまざまざと見るのです。否、それだけではなく、死んだ後、自分のしたことの故にマーレーのように重い鎖に繋がれている囚人の姿をみるのです。

「過去、現在、未来を生きる」

三人の使者は、幽霊という設定ですが、スクルージを回心に導くための神の使者です。神はスクルージを愛し、彼が悔い改めることを望んでおられるのです。スクルージは、使者を通して示される、過去、現在、未来の自分の姿にきづき、神に祈り、自分の生き方を悔い改め、神に方向転換し、新生の決意を新たにするのです。その時に彼が発した言葉が、「私は過去と現在と未来の中に生きよう」というものでした。新生したスクルージは全く別人のようになり、残りの生涯を神と人に仕えるようになるのです。

「キリストの愛」

聖書は、マーレーやスクルージだけではなく、私たち一人一人も神から離れた自己中心的な罪人であると語ります。人は死んだ後、自分のしてきたことに対して、神の前に申し開きをしなければなりません。「すべての口が開かれて、全世界が神の裁きに服する」(ローマ書3:19) のです。
しかし、神は、私たちが神の裁きを受けないための一つの道を開いてくださいました。神の愛するひとり子であるイエス・キリストが、私たちのすべての罪を追って十字架にかかり、身代わりとして神の裁きを受けてくださったのです。そのイエス・キリストを救い主として信じる信仰によって、人は、もはや鎖を繋がれたものとしてではなく、罪赦され、新しく生まれ変わったものとして、希望と喜びの人生を生きることができるのです。私たちは、キリストの愛によって変わることができるのです!!

参考文献 ヂイケンズ『クリスマス・キャロル』(新潮文庫、村岡花子訳)

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