特別企画|202409 映画「隠れ家」

映画「隠れ家」
●日時:9月22日(日) 14:00〜15:00
●映画 「隠れ家」上映

自由になったら、このことを伝えて。どんな深い穴にも、神様はおられるということを。

●入場無料・どなたでもお越しください。

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聖書のことば|9月

“ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。 探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。” (ルカの福音書11:9〜10)
“So I say to you; Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you.For everyone who asks receives; he who seeks finds; and to him who knocks ,the door will be opened.” (Luke11:9~10)

お知らせ

当集会では聖書からわかりすくお話をしております。初めての方も大歓迎です。また消毒, 換気、social distance を取るなどの感染症対策を行っていますので、安心してお越しください。ただし、マスク着用に関しては、参加される方も当集会のクリスチャンも自由になっています。

読書会のご案内

●古賀敬太著『28名の著名人と聖書』(伝道出版社) 
●講師:古賀敬太    ※読書会は終了しました。

これまでの研究会の内容は、下記の動画から御覧下さい。
第1回 「著名人と聖書ー高山右近(1552〜1615)
第2回 「著名人と聖書ー細川ガラシャ(1563〜1600)
第3回 「著名人と聖書ードストエフスキー(1)「罪と罰」(1821〜1881)
第4回 「著名人と聖書ー福沢諭吉(1835〜1600)」
第5回 「著名人と聖書ー内村鑑三(1861〜1930)」
第6回 「著名人と聖書ーパスカル」(1623〜1662)
第7回 「著名人と聖書ー夏目漱石」(1867〜1916)
第8回 「著名人と聖書ー芥川龍之介」(1892〜1927)

[サイト内の動画はこちら]    [YouTube動画はこちら] 

新・聖書入門講座のご案内

聖書をわかりやすく読むために、新聖書入門講座を設けました。今回の講座は、集会所に集まって対面でおこなうものではなく、大津キリスト集会のHPでアップされる動画を見て、視聴者の方々が聖書に親しむ方式をとっています。

新聖書入門講座では、マタイの福音書を1年半ほどかけて読んでいきます。毎月、一章ないし二章の割合でアップしていきますので、連続して最後の28章までお聞きくだされば幸いです。

質問、感想があれば、下記フォームよりお問合せください。

お問合せフォーム

【動画のご案内】聖書入門ールカの福音書を読む

ルカの福音書を読みます。

ルカの福音書

【NEW】 No.19「主の祈り」ルカの福音書11:1-4 動画を見る
【NEW】 No.20「求めよ、さらば与えられん」ルカの福音書11:5-13 動画を見る
【NEW】 No.21「私の内なるパリサイ人」ルカの福音書11:37-52 動画を見る

「聖書入門―キーワードで読む聖書」

第二十回 再臨(παρουσία, パルーシア、second coming)
「再臨のギリシャ語パルーシア」
「再臨」のギリシャ語「パルーシャ」は、新約聖書では24回使用されていて、邦訳では、「来臨」、「来られる」、「到来」などと文脈に応じて異なった訳がなされています。

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第十九回 復活(άνλάστασις, アナスタシス、resurrection)
「ギリシャ語の復活」
ギリシャ語の復活のことばは「アナスタシス」ですが、新約聖書で42回用いられており、アナは「再び」、ないし「上に」、スタシスは「起き上がる」の意味があり ます。

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第十八回 宥めの供え物(propitiation,ὶλαστήριον,ヒラステーリオン) 
  「宥めの供え物」
宥めのそなえもの(ὶλαστήριον,ヒラステーリオン、propitiatiomないしatonement)について考えてみます。なお英語のpropitiation は宥めるという意味ですが、atonement は「償う」という意味があります。

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第十七回 神の愛(love of God、ἀγάπη,アガペー)  
  「新約聖書における神の愛」
神の愛は、ギリシャ語でἀγάπη,アガペーと言います。皆様も聞かれたことがあるかと思います。

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第十六回 神の子(son of God,ὀ υὶος του θεου,ホ ヒュイオス トゥー セウー)  
  「イエスは神の御子」
「神の御子」という表現は、新約聖書に45回使用され、主に福音書に登場します。 「神の子」は、イエスに対して使用される場合、

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第十五回 永遠のいのち(everlasting life,ζωή αἰώωιος,ゾーエ―・アイオーニオス)
「聖書における永遠のいのち」 
「永遠のいのち」という言葉は、新約聖書で43回使用されており、大半はヨハネの福音書の中にあります。

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「新約聖書における神の国の記述」
第十四回 神の国(kingdom of God、βασιλεία τοû θεοû, バシレイア・トゥ-・セウー)
新約聖書では、「神の国」はルカの福音書で32回、マルコの福音書で14回、マタイの福音書で4回、ヨハネの福音書で2回使用されています。

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第十三回 新生(regereration,παλιγγενεσία,パリゲネシア)
「新生のギリシャ語」
この新生(παλaιγγενεσία,パリゲネシア)というギリシャ語は、πἀλιν(再び)とγἐνεσις(生まれる)から成っており、

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第十二回 仲介者、μεαίτης,メシテ―ス,mediator)
「仲介者」
「仲介者」というギリシャ語である「メシテ―ス」は、新約聖書で6回用いられています。「中間に立ち、両者を結び合わせる人」という意味です。

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第十一回 和解(καταλλαγή カタラゲー、reconciliation)
「和解のギリシャ語」
和解という聖書のキーワードは、すでに述べた「贖い」や「義認」と同様に、罪の赦しや救いを意味する言葉です。和解のギリシャ語の名詞は、カタラゲー、和解するの動詞は、καταλλσσω(カタラソー)です。

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第十回 義認(δικαιὀω,ディカイオオー、justifucation)
「義と認める」
「義と認める」(δικαιὀω)という言葉は、新約聖書で39回使われ、特にローマ人への手紙で15回、ガラテヤ人への手紙で8回用いられています。多くは、「義と認められる」、つまり義とされるという意味で受動態で用いられています。

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第九回 贖い(λὐτρωσις(リュートローシス),άπολύτρωσις(アポリュトローシス)、Redemption)
「贖(あがな)う」
聖書で「贖(あがな)う」という場合には、代価を払って買い取る、ないし解放するという意味があります。奴隷解放が、イメージとしてわかりやすいと思います。奴隷を主人から、身代金を払って解放するという意味です。

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第八回 主(Lord,kύριος、キュリオス)
「主であるイエス・キリスト」
聖書では、イエスは救い主であると同時に主であると語っています。例えばペテロ第二の手紙2章20節では、「主であり、救い主であるイエス・キリスト」(IIペテロ2:20)とあります。イエスは、私たちの罪を負い、十字架にかかり、罪の赦しの道を開かれた救い主です。

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第七回 キリスト(Christ、Χρστός、クリストス) (2023、7、1)
「イエス・キリスト」
イエス・キリストは、大谷 翔平というように、姓と名前の関係ではなく、イエスこそがユダヤ人が待ちに待っていたキリストであることを指しています。それでは、キリストとはどういう意味なのでしょうか。クリストスというギリシャ語の言語は新約聖書に531回、パウロの書簡に383回用いられています。

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第六回 福音(εύαγγέλιον、エウアンゲリオン)(2023、6、1)
「福音ー良き知らせ」
聖書は、「福音」(エウアンゲリオン)という言葉を、93回も記しており、福音はgoodnews , 良き訪れを意味します。ギリシャ語のエウアンゲリオンのエウは、良いという意味で、アンゲリオンは知らせを意味します。聖書のメッセージは、福音にあるといっても過言ではありません。

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第五回 罪(ἀμαπτία、ハマルティア)(2023、5、1)
「罪と犯罪は同じではない」
聖書の中でもっとも重要ですが、同時に最も理解されていないのが罪という概念です。聖書のメッセージを聞かれた方が、「あなたは罪人です」と言われると、「そんなはずはない」と反感を露わにされるか、「みんな、同じだ、私だけではない」と開き直られるかどちらかです。

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第四回 人間(ἂνθρπος、アンスロポス)(2023、4、1)
「人間と動物の違い」
人間とは一体、どのような存在でしようか。ひとつの答えは、言葉を持っているかどうかです。私たちは、それぞれの母国語や習得した外国語で、同国人や外国人と会話し、考えを共有します。

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第三回 神(θεός、テオス)(2023、3、1)
「聖書における神の翻訳の歴史」
神は、聖書ではどのように翻訳されてきたのでしょうか。日本人で神を信じるという方は少なからずおられます。「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行法師

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第二回 契約(2023.2.1)
「聖書をどのように読むか」 
聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻によって構成されています。私たちは、聖書をどのように読んだらいいでしょうか。約2000年前に書かれた古典の書として読まれる方もおられます。あるいは人間がどのように行動すべきかの道徳の書として読まれる方もおられるかもしれません。

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第一回 クリスチャン(2023.2.1)
「クリスチャンとは何か」
クリスチャンとは一体どのような存在でしょうか。クリスチャンとクリスチャンではない人の違いとは一体何でしょうか。多くの人は、洗礼(バプテスマ)を受けているかどうかの違いと考えられると思います。洗礼が、クリスチャンかそうではないかの試金石だと思われるのです。

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新刊紹介

『28名の著名人と聖書-聖書の扉を開く』古賀敬太

これまで多くの著名人が、聖書の影響を受けてきました。この書物は、できるだけ多くの人に、聖書が彼らの生涯や著作に及ぼした影響を知ってもらいたいと思い、執筆しました。彼らの中にはクリスチャンもクリスチャンでない人も含まれていますが、人間のエゴイズムや死、生きる意味、神の存在など、人生の根本問題と格闘しつつ、聖書に触れた人々です。
著者:古賀敬太
価格:1,320円(税込)
ISBN978-4-901415-41-5
発売:伝道出版社

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聖書メッセージ79

死刑囚 久田徳造の救いと信仰
 先日、友人から畑野敏子編『甦った人ーある死刑囚の証したこと』という小雑誌が送られてきました。一読して、この死刑囚の信仰に感銘を受けましたので、紹介いたします。久田徳造さんは、尼崎に生まれましたが、産みのお母さんから捨てられた後、福祉施設にはいったり、養父母のもとで育てられたりして、不幸な幼年時代を過ごしました。その後彼は犯罪を犯して少年院を出たり入ったりしていましたが、29歳の時に殺人の罪を犯し、裁判で死刑が確定しました。死刑が執行された1975年6月2日にはまだ35歳でした。

「拘置所の中で」

 彼は、死刑囚として拘置所の中にいた時、震えおののき、わめき狂ったそうです。刑の執行はいつかわかリませんでしたが、恐怖に気も狂わんほどであったといいます。彼がその苦しみと恐れから解放されるきっかけになったのは、獄中で聖書に触れたからでした。彼がどのように変化したかを、『甦った人』に収載されている書簡で明らかにしたいと思います。ただこの書物は、彼が聖書を読むに至った経緯については触れてありません。ここでは、彼が信仰を持って後に書いた3つの歌、そして文通の相手の畑野敏子さんに宛てた四通の書簡を通して、彼に起きた劇的な変化を紹介します。

「彼が獄中で作った歌」
 
 ① 極刑に 苦しみもがきつ 幾年か来て 我が休息の場よ 十字架のもと
 ② ほとばしる ダイヤに勝る輝きよ 死刑囚我にも 十字架の主よ
 ③ 獄にありて 心は春の空駆る 神のめぐみ 受くるこの身は
こうした彼の歌から、彼にとってイエス・キリストの十字架における罪の赦しが、彼の平安と喜びの源泉となったことがわかります。彼はこの地上においては、死刑執行によって自分の罪を償う必要がありましたが、キリストの十字架の犠牲に罪赦され、永遠のいのちの祝福に与ることができました。

「畑野寿子さん宛の極中書簡」
次に久田さんの救いのために祈っておられたクリスチャン女性の畑野寿子さん宛ての書簡を通して、久田さんの信仰がどのようなものであったかを見てみたいと思います。

 ① 1975、3、23日の書簡
「死刑囚になり、やけのやんぱちで、苦しくてならない為に、職員さんに迷惑ばかり掛け通し でした。そんなことが丸一年続きました。あばれすぎて身体中が痛み、寝返りさえ打つこと ができなくなるまで、やけくそになってご迷惑をかけてしまいました。一つには死刑になる ことが恐ろしくてなりませんでした。そしてもう一つには、こんなに苦しくて、死んでしま わねばならないとかと思うと、いてもたってもおられなかったのです。」
 そんな時に久田さんは、「お前はそんなに小さなことで悩み苦しんでいるのか。永遠の命から見れば、お前の死ん でしまっている肉体の命など、ちっぽけもちっぽけ、悩むに足りないことだ。私がこの世に 来て十字架につけられたのは、永遠の命を与えるためだ。」という天からの声を聞き、一時的な肉体のいのちを超えた永遠のいのちのすばらしさに目に開かれます。

聖書には、

「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)

と約束されています。
 
②1975、5、12の書簡
「今神の大きな恵みと奇跡によって目の開かれつつある僕、僕の人生は全く光のない見えな いまっくら闇でしたのに、人間として一番最低、一番見苦しい、一番かすな人間である僕 をも、この絶望のドン底の僕に、今まで知ることのできなかった喜びと希望とが与えら れました。感謝と喜びに満たされるようになって、僕の思い、生活がすっかり変わってし まいました。なにをしていても楽しく、この狭い独房も鉄格子も、もう僕の目にはなんの 嫌なものではありません。気になることがまったくありません。鉄格子は、僕を守ってく れる大切なものにしか見えません。そしてこの狭い独房は、大空のように広い広いものと なりました。」
聖書には、

「光は闇中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1:5)

とあります。光とはイエス・キリストです。

 ③ 1975、5、26日の書簡
「救われようもなかった僕のような者にとっては、主のお約束の全く変わることのない、こ の大きなあわれみは、そして喜びは、言葉に言い尽くせません。死刑囚のこの僕に、人に は想像もつかないような大きな希望が与えられました。この僕に与えられた大きな神の恵 みを、もし他の人々にそのまま伝えることができましたならば—–死刑囚として初めて、人間としてこの世にあることを喜び感謝し、生かされることに望みが与えられました。」

 ④1975、6、2日の書簡
「いよいよ今日、後数時間で主のもとに行かせていただくことになりました。今、この 恵みのひとときを心から味わっています。あの恐ろしくて恐ろしくてならなかった死刑が 、魂の底から恵みに変えられています。主を全く信じ、その確信を心から持つことができ ました。執行を目の前にした僕は、魂の底から安らかに住まわせていただいております。 何の不安もなくただ主を信頼し、その御約束に全てをお任せすることができています。」

「新生」

私たちは、イエス・キリストを救い主として信じられた久田さんが、本当に別人のように新しく生まれ変わり、永遠の命の祝福に入れられたことを知ることができます。聖書は、久田さんだけではなく、私たち一人一人にも、次のように約束しています。

 「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ 、全てが新しくなりました。」(第ニコリントの手紙5:17)

久田さんにとって拘置所の死刑台が天国への凱旋門となったのです。

参考文献

『甦った人ーある死刑囚の証したこと』(畑野寿子編集発行)

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