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当集会では聖書からわかりすくお話をしております。初めての方も大歓迎です。また、マスク、消毒、換気、Social Distance を取るなどのコロナ対策を行っていますので、安心してお越しください。

聖書のことば|5月


死は勝利に飲まれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えて下さいました。 (1コリント書15:54〜57)
Death is swallowed upon in victory. Death,where is your sting. Hades,where is yor victory. The sting of death is sin,and the strength of sin is the law. But thanks to be to God,who gives us the victory through our Lord Jesus Christ. (1 Corinthians15:54~57)

マーク・トウェイン と聖書-人生の5つの恵み

「マーク・トウェインの著作」


マーク・トウェイン(1835~1910)は、『トム・ソーヤーの冒険』(1876年)、『王子と乞食』(1881年)、そして『ハックルベリ・フィンの冒険』(1885年)などでベストセラー作家となり名声を博しました。皆さんも若い頃一度は読まれたことがあるのではないでしょうか。彼の人間愛に満ちたユーモアには多くの読者が魅了されました。しかし、彼の人間愛の背後には、彼の苦悩が潜んでいました。彼の仮面の背後にある苦悩に光を当て、彼の人生の精神的軌跡の全貌を描き出したのが清水氾『マーク・トウェインとキリスト—もし、また会えたなら—』(真菜書房、1995年)です。この書物を導き手として、マーク・トウェインの自伝から彼の人生に迫ってみたい思います。

「『トム・ソーヤーの冒険』と聖書」

彼の母ジェインは、毎日聖書を神の言葉として読んでいた敬虔な婦人でしたが、父親は無神論者であったので、こうした家族の葛藤がマーク・トウェインの心の中にも最後まで、戦いとして存在していました。時と共に、彼の心の中では、神を否定する心が強くなります。しかし、『トム・ソーヤーの冒険』では、風刺的傾向が強いとしても、家庭や教会における聖書暗唱や祈りの光景が描かれていたり、新・旧約聖書からの引用が多数なされています。トム・ソーヤーの養母のポリー伯母さんは信仰深い女性で、トム・ソーヤーが死んだと聞いた時に、ああ本当につらい!。と叫びつつも、ヨブが子供たちが死んだ時に発した有名なヨブ記の一節、「主は与え主は取られる、主の御名は賛美すべきかな」(ヨブ記1章21節)を唱えるのです。 また死んでしまったと思われているトム・ソーヤーの葬式が教会で行われた時、牧師は両手を挙げて祈り、胸を打つ賛美歌が歌われた後、 「私はよみがえりです、いのちです」(ヨハネの福音書11章25節)という死からの復活を予告するイエスの言葉を会衆に語るのです。

「妻と二人の娘の死」

トウェインは彼の小説で名声を博し、有名になりますが、他方、愛妻オリヴィアと愛する二人の娘の死を経験しています。長女のスージーが1896年に25歳で亡くなった時に、彼は、親友のハウエルズに、「なんと身の毛のよだつ悲劇でしょう。なんと残酷なことでしょう」と思いを吐露しています。また、最愛の妻のオリヴィアが1904年に亡くなった時、彼は日記に、「私の命である妻は死んだ。妻は私の富であった。だから私は乞食同然である。」と自分の苦悩をあらわに示しています。オリヴィアは、「死にたくない」と言って死んでいったそうです。悲劇は立て続けに彼を襲います。1909年に末娘のジーンが心臓麻痺で亡くなります。彼はその時の心境を次のように書いています。
「私は13年前にスージーを失った。そして、そのかけがえのない母親[オリヴイア]を失ったのは、5年半前のことであった。そして今や、私はジーンを失った。かってあんなにも豊かであった私が、なんと貧しくなったのであろう。ジーンはあそこで寝ている。そし私は胸が張り裂けないようにと、夢中になって机に向かって筆を走らせている。」

「神への怒り」

こうした一連の悲劇に対してトウェインは、ポリー伯母さんのように、「主は与え、主はとられる。主の御 名は賛美すべきかな」と言えないどころか、神に対する怒りを抱きます。愛する者が取り去られるのが神のなすことならば、神を呪うしかありません。神は存在しないと信じているなら本当は神を呪うことさえしないのですが、彼は心の中では神の存在を無視することができないのです。かといって、神の愛を信じることもできません。トウェインは、彼の死後発表された「不思議な若者」(1916年)いう短編の中で、溺れているのを助け出されたが死んでしまった娘リザに対する母親の絶望を描いています。そこには、トウェインの神に対する思いが投影されています。
「もう二週間も私は胸騒ぎがしていたのです。可愛いリザが死ぬのではないだろうかという予感がしていました。だから昼も夜も、私は神様の前で泥の中にひれ伏して祈り続けたのです。災いからお救いくださいませって、必死の思いで神様にお願いしてきたのに、そのお答えがこれじゃないの!?–あわれみなどはないのです。私は二度と祈りません。」

「人生の5つの恵み」

トウェインの人生を知る秘訣は、彼の短編「人生の5つの恵み」(1902)にあります。ある若者が、人間に与えられた五つの恵みを次々に選択していくストーリーです。最初は彼は快楽を選びとりました。しかし後に快楽がむなしいことを知り、愛を選びます。しかし彼の家族の死による別離の苦しみを経験し、愛を呪うようになります。「私は愛から幸福を手にいれたが、一時間の幸福の代価として、千時間もの悲しみを支払ってきたのだ。心の底から私は愛を呪ってやる。」次に彼は名声を選びます。しかし、彼は、名声の後に、名声の葬儀屋が来て、名声に泥と軽蔑が投げつけられることを経験します。名声や評判はアップ、ダウンが激しいのです。これは、彼の冒険小説で名声を博したトウェイン自身の叫びでもありました。彼は、「ああ有名になることは何と苦々しく惨めなものだろうか! 華やかな時には泥を投げつけられ、衰えたとなれば軽蔑と哀れみの的となる」と書いています。この後、彼は富を選び取ります。しかし富も、その結果として人生をダメにしていく場合があります。彼は小説の印税で得た大金を投資して、破産し、多額の借金を抱え込むようになります。彼は4つの恵みを経験した後に、次のように言っています。
「この世の恵みなど呪われてしまえ。それらは嘲りだ。表面ばかり飾った偽りにすぎない。どいつもこいつもつけ損ないの名前ばかりだ。恵みではなくて、借り物に過ぎない。快楽も愛も名声も富も、みんな束の間の仮面にすぎない。仮面の裏には、苦痛、恥、貧乏という、永遠に変わらないものが隠されていたのだ。」
それでは、最後の5番目の恵みとは一体何でしょうか。それが、彼の人生を究極的に豊かにしてくれるものでしょうか? なんと、彼が望んだ最後の恵みは、死だったのです。なぜ死はトウェインにとって恵みでしょうか? 死こそ私たちの人生最大の敵であり、恐怖ではないでしょうか?トウェインにとって、快楽、愛、名声、富、これら全てを味わえば後になって人間に悲惨さと苦しみがもたらされます。それとくらべたら、そうした悲惨さや苦しみを全てを忘れさせ、清算することのできる死は、恵みに他ならないという結論なのです。しかし死が恵みであるとするならば、人生とは何と残酷でしょうか。生きることは無意味であり、全く光を見出すことができないものとなってしまいます。聖書で神が私たち一人一人に与える大事な恵みは、死を超えた希望であり、永遠のいのち、神のいのちです。死で全て終わってしまうのではなく、死は永遠や天国にいたる門にすぎないというのです。死を超えた永遠のいのちを神の恵みとするのと、死そのものを 恵みとするのとでは、全く生き方が異なります。前者は、希望への道であり、後者は絶望への道 なのです。

「ソロモンの伝道者の書」

旧約聖書に古代イスラエル王国の第三代王であるソロモン王の「伝道者の書」(別名 コレヒトの手紙)には、マーク・トウェインが経験した人生の叫びが、記録されています。ここでソロモンは、自分の人生を振り返り、「空の空、伝道者は言う、空の空。すべては空。日の下[ 地上]でどんなに労苦しても、それが人の何の益になるだろうか」と人生のむなさしさを語ります。たくさんの知識を得ても、事業に成功しても、巨額の財産を得ても、快楽をむさぼっても、名声を得ても、彼は、「一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も定まらない」と悲痛な叫びを発します。そして、「私は生きていることを憎んだ」とさえ語るのです。この時のソロモンにとって、マーク・トウェインと同様に死は、人生の恵みでさえあるのです。しかし、マーク・トウェインと異なることは、ソロモンがむなしさの原因が生ける創造者である神から離れているところにあることを気づき、そこから悔い改めて神に立ち返ったことなのです。ソロモンは、自らの経験を振り返って、若い人々に、腹の底から絞り出すように「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」という年月が近づく前に」と訴えるのです。

「マーク・トウェインの臨終の最後の言葉」

マーク・トウェインは、1910年4月21日に75歳で死去しましたが、そこに居合わせていた長女のクララは、彼の臨終の様子について次にように書いています。
「私は父の傍らにすわっていました。その時彼は、突然眼を開き、私の手を取ると、私の顔をじっと見つめました。消え入るような声で父はつぶやきました。『さようなら、いとしい者よ。もしまた会えたら……』。
死を恵みだと考えるトウェインでさえも、死によって愛する者と切り離される悲しみを深く感ぜざるを得ませんでした。だからトウェインは、「もしまたえ会えれば」と臨終の床で再会の希望を語るのです。

「清水氾氏の勧め」

最初に紹介した清水氾氏は奈良女子大学の英文学の教授をしておられた方ですが私も一度だけ講演を聞いたことがあります。清水氏は、若い時に死の恐怖の経験を通してキリスト信仰に導かれ、「死は永遠の命に入る門なり」と死を超えた希望があることを確信されました。清水氏は、マーク・トウェインのように死を恵みとするのではなく、死を超えた永遠の命を神からの恵みとするように語られるのです。清水氏の言葉を紹介して、終わりたいと思います。「もし私たちが愛する子供を平和に天国に送りたいなら、愛する妻の死に際して、望みと恵みとを分かち合いたいと切望するなら、また最後のあかしの機会である自分自身の死を迎えて、希望に顔を輝かせながら永遠のいのちに入りたいと思うなら、どうかイエス・キリストを学んでください。死ではなくて、イエス・キリストを最大の恵みとしてください。イエス・キリストを救い主と仰いで下さい。」

参考文献

『トム・ソーヤーの冒険』(新潮文庫、2013年)
『マーク・トウェイン短編全集(下)』(勝浦吉雄訳文化書房博文社、1994年) ここに「人生の5つの恵み」と「不思議な若者」が掲載されている。
『マーク・トウェイン自伝』(勝浦吉雄訳、筑摩書房、1984年)
清水氾『マーク・トウェインとキリスト—-もし、また会えたならば』(真菜書房、 1995年)
文責 古賀敬太

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