クリスマス|悲しみから喜びへ

クリスマス|悲しみから喜びへ


2022年12月18日(日) 午後2時〜
大津キリスト集会

クリスマスメッセージ:古賀敬太氏
ほかに
★クリスマス・キャロル
★人形劇 「はじめてのクリスマス」
★聖書朗読 お茶とクッキー
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お知らせ

当集会では聖書からわかりすくお話をしております。初めての方も大歓迎です。また、マスク、消毒、換気、Social Distance を取るなどのコロナ対策を行っていますので、安心してお越しください。

読書会のご案内

●テキスト:古賀敬太著『28名の著名人と聖書』(伝道出版社) 
●講師:古賀敬太
(1952年福岡県生まれ。大阪国際大学名誉教授、元同志社大学非常勤講師)

●毎月1回読書会を行います。関心のある方は是非ご参加下さい。
●テキストは持っておられなくてもレジュメがあります。
●参加費は無料です。

[詳しくはこちらをご覧ください。] 

新・聖書入門講座のご案内

聖書をわかりやすく読むために、新聖書入門講座を設けました。今回の講座は、集会所に集まって対面でおこなうものではなく、大津キリスト集会のHPでアップされる動画(15分以内)を見て、視聴者の方々が聖書に親しむ方式をとっています。

新聖書入門講座では、マタイの福音書を1年半ほどかけて読んでいきます。毎月、一章ないし二章の割合でアップしていきますので、連続して最後の28章までお聞きくだされば幸いです。

質問、感想があれば、お名前とメールアドレスをお書きになって、大津集会のEメールbible.otsu02@gmail.comまでお送りください。

【動画のご案内】聖書入門ーマタイの福音書を読む

第5回聖書入門講座(2022.12)


【NEW】 No.13 「イエス・キリストの招き」(マタイの福音書11章) 動画を見る
【NEW】 No.14「安息日論争、主のしもべ預言」(マタイの福音書12章) 動画を見る
【NEW】 No.15 「天の御国とは何か」(マタイの福音書13章) 動画を見る

新刊紹介

『28名の著名人と聖書-聖書の扉を開く』古賀敬太

これまで多くの著名人が、聖書の影響を受けてきました。この書物は、できるだけ多くの人に、聖書が彼らの生涯や著作に及ぼした影響を知ってもらいたいと思い、執筆しました。彼らの中にはクリスチャンもクリスチャンでない人も含まれていますが、人間のエゴイズムや死、生きる意味、神の存在など、人生の根本問題と格闘しつつ、聖書に触れた人々です。
著者:古賀敬太
価格:1,320円(税込)
ISBN978-4-901415-41-5
発売:伝道出版社

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聖書のことば|12月

Merry Christmas!!

シメオンは、幼子【イエス・キリスト】を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、 しもべを安らかに去らせてくださいます。
私の目があなたの御救いを見たからです。 あなたが万民の前に備えられた救いを。
異邦人が照らす啓示の光、 御民イスラエルの栄光を。」
(ルカの福音書2:28〜32)

聖書メッセージ66

「真実の愛とは」

ークリスチャン裁判官 石丸俊彦(1924-2007)と吉野邦彦ー

2022年2月12日の朝日新聞の夕刊に浅間山荘事件の公判で被告吉野雅邦に無期懲役判決を下した、当時東京地裁の裁判長石丸俊彦の記事が掲載されていました。また2月25日には、NHK の「クローズアップ現代」において、「50年目の独白ー元連合赤軍幹部の償い」と題して、吉野邦彦が獄中で書いた手記が紹介されていました。吉野が、自分の罪を認めて、償いの人生を始めたのは、裁判長である石丸雅彦との出会いがきっかけでした。以下、主に「クローズアップ現代」の記事そして、吉野の友人の大泉康夫さんの書物を通して、石丸俊彦裁判長との出会いによる吉野囚人の魂の変化について紹介します。

「吉野雅彦のプロフィール」

吉野雅彦は、1948年3月27日に東京に生まれます。父良一は、東京帝国大学法学部を卒業しますが、東大時代の同期生には中曽根康弘元首相がいました。雅彦も、当時東大合格者数第一位を誇る日比谷高校に進学した秀才でした。高校時代彼は、友人と「二葉亭四迷と北村透谷」、「小林秀雄と亀井勝一郎の大きな違い」、「太宰治の作品は本当に退廃的か」「ヘンリー・ミラーにおける性の描き方」「サルトル・カミュ論争」、「トルストイの悪への無抵抗」、「ドストエフスキーの罪と罰とは」「旧約聖書」、「禅について」などを話し合ったと言われています。人生いかに生きるべきかを考えていた真面目な学生でした。大学は横浜国立大学経済学部に入学、大学に入って学生運動に没頭し、革命左派から、その後連合赤軍派に入り、1969年から1972年に起きた一連の連合赤軍事件に関与します。当時の愛知揆一外相の訪ソ訪米に反対し、羽田空港の滑走路に火災瓶を投げつけた事件、栃木県真岡市の塚田猟銃店での猟銃強奪事件、印旛沼事件(同志2名を殺害)、山岳ベース事件(同志12名の総括・殺害)、あさま山荘事件(警官2名、民間人1名死亡)に関与しています。実に彼は17名の殺害に関与したとして、逮捕され、起訴されたのです。検察は死刑を求刑しましたが、1973年に東京地裁で下された判決は、無期懲役でした。検察は控訴しましたが、1983年、第二審の東京高裁は、検察側の控訴を棄却し、検察も最高裁への上告を断念したため、無期懲役の刑が確定し、吉野は千葉刑務所に移送されます。そして現在においても服役中です。現在、74歳です。なお同じく起訴されていた連合赤軍の森恒夫は拘置所で自殺をし、永田洋子は1982年に死刑判決が確定しますが、2011年に獄死しています。

「浅間山荘事件と山岳ベースリンチ事件」

1972年2月19〜28日に連合赤軍の5人が長野県軽井沢町の浅間山荘に立てこもり、機動隊員と銃撃戦を行いましたが、その5人の中に吉野雅邦がいました。この事件後、群馬県の山岳で連合赤軍の仲間12人が「総括」として殺害され、吉野もこの殺害に関わったことで、殺人、死体遺棄、監禁などの罪状で起訴されます。この殺害された12人の中には、吉野の子供を身ごもっていた妻の金子みちよ(享年23歳)も含まれていました。みちよは吉野が横浜国立大学の混成合唱団で知り合った同じ歳の女性で、吉野に連れ添う形で、革命運動に身を投じていたのです。

「石丸裁判長の判決文」

東京地裁でこの裁判を担当した石丸裁判長は、1979年3月の判決(事件から7年後)に際して、吉野雅彦に対する検察側の死刑の求刑に対して、無期懲役の主文を言い渡す前に、700ページに及ぶ判決文を読み上げ、最後に吉野に呼びかけています。そこには、吉野の更生を願う裁判長の熱い想いがこめられていました。

「法の名において生命を奪うようなことはしない。被告人は自らその生命を絶つ事も、神の支えた生命であるから許さない。被告人は生き続けて、その全存在をかけて罪を償ってほしい。」

また判決文には、「君の金子みちよへの愛は真実なものであったと思う。そのことを見つめ続け、彼女と子供の冥福を祈り続けるように。」と記されています。死刑ではなく、無期懲役の判決が下された理由として、リンチ殺人事件に関しては、絶対的な権力と地位を有していた永田洋子元死刑囚(2011年に獄中で死去)と森恒夫元被告(拘置所で自殺) に対して従属した地位にあり、命令を実行せざるを得なかったことが考慮されました。その後、1983年2月控訴審の東京高裁でも同様な判決が下され無期懲役の刑が確定します。

「石丸裁判長が被告吉野に見たもの」

石丸裁判長が吉野の親友大泉康夫さんに宛てた手紙には、「私は吉野君に自己を見ています」と書いています。吉野の人生は、石丸裁判長にとって自分の人生のように思えたのです。石丸は、1936年「二・二六事件」に共感して16歳で陸軍士官学校に入学し、職業軍人へ道を歩き始めます。彼は、以下のように当時の心境を日記に書き記しています。

「私が軍人になろうとした真の目的は、端的に忠道の完成にある。しかして、忠道を貫徹しようとするなら、大元帥陛下(天皇)の威光のために自己を滅却して大義に立ち、喜んで死地に邁進する軍人こそ、日本臣民の最上の名誉ではないだろうか。」

石丸は、後に太平洋戦争が間違った侵略戦争であることを知り、そのために多くの若い命が奪われたことを思い、悔悟の念を抱きます。彼は、「天皇のウルトラ信者」として、自分で考えることを放棄して、上からの命令に従って、戦いました。そして過去の「皇国兵士」は、「革命戦士」を称する吉野に自分の姿を見たのです。そこにあるのは、自分で考えることや他者への思いやりを忘れ、連合赤軍の指導者の命令にただひたすら盲目的に従っていた吉野と同じ心理構造でした。それ故石丸は、吉野に革命イデオロギーから解放されて、自由に物事を考え、自分がしてきたことの罪の重さを自覚し、「全存在をかけて罪を償う」ように訴えかけたのです。そのことはまた、戦後の石丸が抱いた思いでもありました。

「石丸裁判長の吉野への思い」

石丸裁判長は東京地裁の判事を辞めて、早稲田大学で刑事訴訟法を教えるようになりますが、吉野のことを忘れずに、彼の人生に寄りそっています。クリスチャンであった石丸は、吉野が服役してから10年後の1992年に聖書を差し入れています。その聖書の見開きには、「愛することのない者は、神を知りません。神は愛だからです。」と書かれてあります。石丸裁判長としては、吉野に是非神の愛を知ってもらいたい、そして神によって愛されていることを知ることが、逆説的であるが、真に自分の罪を償う秘訣であると考えたのではないかと思います。聖書の添えられていた手紙には、「必ずやこの社会に復帰できますことを信じて祈っております」と記されてありました。
その後、石丸は、毎年吉野にクリスマス・カードや誕生日カードを送っています。そのクリスマス・カードには、Merry Christmas の下に以下のように記されてありました。

「万人の救いのために神のひとり子でありながら、あえて人となられ、十字架の苦難の道を歩まれるべくお生れになられた主イエス・キリストの御降誕を共に心からお祝い申し上げます。」

また1994年3月27日に送った誕生カードには、「神によってこの世に生命を与えられた尊いお誕生日を心からお祝い申し上げます。上からの御恩寵御慈愛が日に日に豊かにふりそそがれがれますように主にお祈りいたしております。」と記されていました。
石丸は、2007年4月1日、82歳で死去し、明治・大正の卓越したキリスト教指導者である植村正久(1858〜1925)が創設した東京の富士見町教会で葬儀が営まれました。その後、石丸さんの奥さんから石丸が愛用した黒い革バンドの腕時計が吉野に送られています。吉野は、石丸元裁判長の訃報を聞き、衝撃を受け、以下のように述べています。

「全身をたたきつぶされるような衝撃をうけました。私にとっては命の恩人とも言言うべき先生ですし、存命中に、現在の立場と思いに立った事件への省察書をお送りせねばと思っていたので、その点、申し訳ない思いが一杯です。」

省察書とは、「全存在をかけた償い」の書とでもいうべき彼の手記でした。

「真実の愛について」

吉野は、獄中で、「〈随想〉故石丸俊彦先生への報恩について」と題した400字詰め原稿用紙86枚の手記を書いています。これは、吉野の身元引き受け人で弁護士の古畑恒雄さんに託されました。そこには、「人を変え得るものは、力ではなく、本人への愛情を込めた説諭による他ない、と思えるのです。そうです。石丸先生が、自ら身をもって実践されたように。」と記されています。
石丸が吉野に語りかけた真実の愛を、獄中で吉野はその大切さをかみしめるようになります。吉野は、人を真に変えることができるのは、真実の愛に他ならないことを知ります。吉野は革命戦士時代、人間の愛や家族の愛を革命に対立するものとして否定していました。そのことについて彼は、「自分が『愛すること』について、否定的な捉え方をしていたことに気付きます。愛情そのものを、利己的な感情のごとくみなして、家族や友人の関係もすべて、昇華ー淘汰さるべき個人的関係であるかのようにとらわれていたのです。」と述べています。そしてかっての自分は、「自分を疎かにし、他人や組織に従属し、自分を失っていた状態で」、「人を対等な人格として尊重できず、相手の立場や心情を思いやることはできなかった」と反省しています。

「キリストの愛」

すでに、述べたように、石丸は吉野にクリスマス・カードでキリストの十字架の愛を語っていました。真実の愛は、キリストの十字架から生まれ、キリストの愛を知ることによって、人を本当に愛することができるというメッセージです。
吉野は、裁判の当初、自分の殺害行為を、殺害を命令した森や永田のせいにし、深刻な罪意識を持つことはありませんでした。しかし、石丸裁判長との出会いを通して、自分の全存在をかけて罪をつぐな姿勢に転換します。そして真実の愛の必要性に目覚めるようになります。石丸の願いは、吉野が「全存在をかけて罪を償う」と同時に、キリストの愛を知り、新たな希望の人生を歩んで欲しいということにありました。その願いが実現されるように期待したいと思います。

「聖書の言葉」

“私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、
なだめのささげものとしての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。” (1ヨハネの手紙4:10)

参考文献
http://www.nhk.jp gendai. blog
大泉康雄『氷の城ー連合赤軍事件・吉野雅邦ノート』(新潮社、1998年)

聖書メッセージ67

山室軍平(1872〜 1940)と聖書

ー民衆に福音をー

皆さんは、山室軍平といっても、知らない人が多いのではないでしょうか。クリスチャンでも知っている人は多くはないと思います。彼は「救世軍」(Salvation Armyープロテスタントの一教派で、軍隊的組織編成をとり、小隊が教会にあたる)の日本のリーダーでした。「救世軍」でよく知られているのは、「社会鍋」です。歳末になると、軍服と帽子を被り、賛美歌を歌い、鍋を吊るして、街頭で生活に困窮した人々のために募金活動をしている光景を見たことがある人もおられると思います。それでは、山室軍平はどのような人であったのでしょうか。

「山室軍平のプロフィール」

山室軍平は、1872年(明治5年)8人兄弟の末っ子として、岡山県阿哲軍哲多町に生まれます。家は貧しかったため、1881年(明治14年)、杉本彌太郎という叔父の養子になります。杉本家は、質屋をしていました。彼は、1886年(明治19年)、24歳の時に養父母の家を無断で東京に出て、印刷工として働くようになり、その結果、養家から廃嫡され、山室姓に戻ります。

「聖書との出会い」

軍平は、15歳の時の1887年 ( 明治20年)、路傍伝道でキリスト教の印刷物をもらいます。それ以降、集会に出席したり、自ら新約聖書を購入して、 熱心に読むようになります。彼は、下宿先から活版所に通う途中、新富橋の福音教会系の築池教会に通うようになります。なんとこの教会の牧師は、真珠湾攻撃で有名な山本五十六の実兄の高野丈三郎でした。

「山室軍平の回心」

軍平は、聖書を初めて開いた時、聖書の倫理的・道徳的基準の高さに愕然とし、その基準に照らして、自分の罪を示されます。そして彼は、自分の罪のために死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じるようになります。彼自身の言葉を引用します。

「一、ニヶ月の間集会に出席し、聖書を読んだ。こうして天の父の存在、自分の罪、キリストの救いのことがわかってきた。自分の罪を悔い改めて、キリストとその十字架を信じて罪の赦しを求め、救いの恵みを受けた。」

「専心伝道者になる」

彼は、1888年8年(明治21年) 16歳の時にバプテスマを受けます。その後、専心的に神に仕え、福音を民衆に伝えることを決意します。その時の彼の祈りを紹介します。

「神様、私は弱い、愚かな、足りないも者であります。しかしながら今、身も霊魂も、すべてあなたに差し上げますから、どうか受けいれて潔め、もしできることなら用いて、これらの職工、労働者、そのほか、一般平民の救いのために働かせたまえ。どんな無学な人でも、聞いてわかるように福音を伝え、またどんな無知な人でも、読んでわかるように真理を書き記す者とならせたまえ。キリストの御名によって願いたてまつる。」

彼はそのために、昔の心学の本、童話本、詩、歌、俳句、ことわざ、例え話をできるだけ広く集めて熟読し、あるものは書き抜いて精読し、また暗記して、それらを聖書メッセージにとりいれるように努めたそうです。

「新島襄の言葉」

軍平は、京都の同志社で開催された夏期学校開催に参加し、そこで闘病中であったにもかかわらず、熱く信仰を語る新島襄の言葉に感動します。新島は、以下のように、聴衆者に呼びかけたそうです。

「明治維新の改革は、青年の手によってなされた。そのように神の国を建設する大業も、また青年の力に待つところが最も多い。一本の薪は盛んに燃えるちからがない。けれども多数の薪が集まれば、勢い盛んに炎上する。そのとおり、諸君もまた、協力して同胞の救いのために戦わねばならない。」

軍平は、新島襄は敬愛していましたので、同志社の予備学校に入学しますが、聖書霊感説を否定する同志社の自由主義神学になじめず、悩んだ末、中退しています。

「救世軍に入隊」

軍平は、岡山県高梁での伝道 を1889年、17歳の時に開始し、また当時岡山で孤児院を開設していたクリスチャンである7歳年上の石井十次(1865〜1914)の働きを精神的・経済的に支えています。石井十次の孤児院での働きは、軍平にとっても後の社会福祉活動の原点となりました。ちなみに石井十次の生涯は、松平健主演、竹下景子、大和田伸也などが出演した「石井のお父さんありがとうー岡山孤児院・石井十次の生涯」で2004年に映画化されています。
その後、山室軍平は紆余曲折を経て、1895年ウイリアム・ブース(1829-1912)が1877年に始めた救世軍に入隊します。軍平、23歳の時です。
これ以降、軍平は救世軍の指導者として、福音宣教に邁進すると同時に、様々な慈善活動、孤児や外国人失業者の救済、公娼廃止運動、結核療養所の開設、関東大震災などの震災被災者の支援活動、禁酒運動、地域住民や児童のためのセトルメント、児童虐待防止運動、歳末の社会鍋など多方面の社会福祉事業にコミットします。救世軍の慈善活動を支えた一人が渋沢栄一であることはよく知られており、山室軍平は1931年7月に渋沢夫人から依頼されて、渋沢が死ぬ前に3度にわたって直接福音を語っています。
山室軍平にとって、信仰と社会事業は密接不可分でした。彼はキリストの十字架の福音を語ると同時に、キリストの愛に駆り立てられて、慈善活動を行いました。救世軍の社会慈善・福祉活動は、日本でも注目され、大隈重信や渋沢栄一が資金的に協力し、宮内省も1918年以降、千円の下賜金を与えています。しかし 軍平にとって慈善活動は目的そのものではなく、福音伝道が目的そのものでした。とはいえ、福音を通してキリストの愛を知れば知るほど、山室は困っている人、苦しんでいる人を支援し、彼らの人間の尊厳を回復することを目指したのです。
山室軍平の活動の原動力は彼の祈りでした。彼は、たゆみなく熱心に聖書を読んだ人です。彼は毎朝聖書をよみ、神に祈るデボーションの時を最も大事にしたと言われています。また彼は、救いを祈る人の名簿を作り、定期的に祈りましたが、その数は800名にも達したそうです。
彼は、1899年6月に同じ救世軍の隊員(クリスチャン)である佐藤機恵子と結婚します。軍平27歳、機恵子25歳の時です。同年民衆伝道を目指し、「誰にでもわかるキリスト教」として、『平民之福音』を出版しています。彼は貧困に喘ぐ民衆、病気で苦しむ人々に寄り添い、福音を伝えました。

『平民之福音』

私が持っている『平民之福音』は、1992年(平成4年)のものですが、すでに526版と版を重ねており、時代を超えて読み継がれてきたことを示しています。例えば、1969年に500版を出版していますが、約50万部も印刷されています。1915年には、司法当局により、全国の刑務所に備えるために、『平民之福音』605部の注文があったそうです。
この書物の序文に、軍平は、『平民之福音』を書くに至った動機を、「私の小さな胸の中にあるたった一つの願いは、いかにしてもこの大いなる神の御慈愛を、ことにわが敬愛する平民諸君に、お知らせ申したいということであった。」と記しています。
『平民之福音』は、第1巻 「天の父上」第2巻「人の罪悪」 第3巻 「キリストの救い」第4巻 「信仰の生涯」第5巻 「職分の道」によって構成されています。例えば第1巻の「天上の父」においては、信仰は、盲目的な「いわしの頭も信心から」や「先祖伝来の宗旨であるから」ではなくて、よく考えて信頼に値する神を求める必要があると述べています。その神とは天地創造の神であり、人間をわが子のように慈しみ、あわれむ父なる神です。そして軍平は、先祖伝来の幾多の偶像ではなく、唯一で創造主である真の神を心から礼拝することを勧めます。そして、第2巻「人の罪悪」では、罪を悔い改めて神に帰ること、第三巻の「キリストの救い」では、イエス・キリストが神の子であり、救い主であることが記されてあります。

「妻機恵子の死」

1916 年に軍平の妻であり、救世軍の忠実な兵士で同労者でもある機恵子が神に召されます。彼女は、子供達一人一人の頭を撫でながら、順番に最後の教えを語ります。そして神に祈り、仰臥したまま白紙に「神第一」の3字を書き、さらに「我が身の望みは、主の十字架にあり」と書き 、「幸福は唯十字架に側にありますと伝えてください」と夫に遺言しています。キリストの十字架の贖いこそ、機恵子の生命そのものでした。彼女は軍平が、「父よ彼女の霊を受けたまえ」と祈る中、42年の生涯を終えました。葬儀には、司式をした金森通倫 を初め、島田三郎、徳富蘇峰、石井十次、留岡幸助など錚々たる人物が参加していました。 また津田梅子や河井道の募金によって、山室機恵子記念堂が建てられ、彼女の墓の墓碑銘には「幸福はただ十字架の側にあり」ということばが記されてあります。

「民衆の聖書」

山室軍平は1921年から「民衆の聖書」のシリーズとして、『マタイ福音書』、『使徒行伝』、『ルカ伝』、『ヨハネ伝』、『ロマ書』などのわかりやすい聖書の手引書を刊行して、民衆に聖書が浸透することに尽力します。彼は、1935年の救世軍開設40年記念講演会で、「血の一滴に至るまで民衆の聖書に注ぎたい』と抱負を述べています。
山室軍平にとって内村鑑三は心の支えであり、難問題が持ち上がると内村を訪ねて、相談をしました。内村が主に知識人やインテリに福音を語り、山室軍平が民衆の中に入って福音を語り、慈善事業を展開したという違いがあるものの、二人はキリスト信仰において相互に信頼しあっていました。

「山室軍平の死」

1937年に20年間苦楽と信仰を共にした再婚の妻悦子が死去し、 山室軍平も急性肺炎にて1940年3月死去します。この時期はまさに軍国主義が猛威を振るっていた時代で、『平民之福音』も発禁処分されています。山室軍平が太平洋戦争の勃発の前に天に召されたことは、神の恩寵と言わざるをえません。
彼の多磨霊園の墓地の墓碑銘には次のように記されてあります。

「憂うる者の如くなれども常に喜び、貧しき者の如くなれども多くの人を富ませ、何も有(も)たぬ者の如くなれども、凡ての物を有(も)てり。」

これは、聖書の第2コリント6章10節からの引用であり、まさに、キリストにあって生きた山室軍平の信仰と生涯を象徴する墓碑銘です。彼はたとえすべてのものを失っても、キリストにあって全てのものを持っている者として生涯を全うしました。
最後に、山室軍平が、ある人物に送った聖書の献辞を紹介します。そこには、後世の人々に送る熱い想いがほとばしり出ています。

「神の他畏る所なく、罪の外恥じる所なく、基督とその十字架の外何事をも知らざる者百人あらば世界を動かすことを得べしと、ウエスレーは言いぬ、君がその一人たらんことを祈り止まず」

参考文献

山室軍平『平民の福音』
室田保夫『山室軍平』(ミネルヴァ書房、2020年)
三吉明『山室軍平』(吉川弘文館、1986年)
鈴木範久『聖書を読んだ30人』(日本聖書協会、2017年)

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