聖書のことば|2月

“私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは、労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させて下さい。” (詩篇90:10、12) “The length of our days is seventy years or eighty ,if we have the strength; yet. their span is but trouble and sorrow,for they quickly pass,and we fly away.——-Teach us to number our days aright,that we may gain a heart of wisdom.”(Psalm90:10,12)

“主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。”(箴言1:7)
“ The fear of the Lord is the beginning of knowledge ,but fools despise wisdom and discipline.”(Proverbs1:7)

お知らせ

当集会では聖書からわかりすくお話をしております。初めての方も大歓迎です。また消毒, 換気、social distance を取るなどの感染症対策を行っていますので、安心してお越しください。ただし、マスク着用に関しては、参加される方も当集会のクリスチャンも自由になっています。

読書会のご案内

●古賀敬太著『28名の著名人と聖書』(伝道出版社) 
●講師:古賀敬太    ※読書会は終了しました。

これまでの研究会の内容は、下記の動画から御覧下さい。

   [YouTube動画はこちら] 

新・聖書入門講座のご案内

聖書をわかりやすく読むために、新聖書入門講座を設けました。今回の講座は、集会所に集まって対面でおこなうものではなく、大津キリスト集会のHPでアップされる動画を見て、視聴者の方々が聖書に親しむ方式をとっています。

新聖書入門講座では、マタイの福音書を1年半ほどかけて読んでいきます。毎月、一章ないし二章の割合でアップしていきますので、連続して最後の28章までお聞きくだされば幸いです。

質問、感想があれば、下記フォームよりお問合せください。

お問合せフォーム

【動画のご案内】聖書入門ールカの福音書を読む

ルカの福音書を読みます。

ルカの福音書

【NEW】 No.34「ザアカイとイエス・キリスト」(ルカの福音書19:1~10) 動画を見る
【NEW】 No.35「イエスのエルサレム入城」(ルカの福音書19:28〜44) 動画を見る
【NEW】 No.36「悪い農夫のたとえ」(ルカの福音書20;9~19) 動画を見る

「聖書入門―キーワードで読む聖書」

第二十四回 時(time,καίρόσ,カイロス)
聖書では時を表すギリシャ語として καίρόσ,(カイロス)とχρόνυϛ(クロノス)があります。クロノスが、過去、現在、未来という機械的に継続して流れる時間を意味するのに対し、カイロスは好機、チャンス、特別な時、ないし神が定められた救いの時を意味します。

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第二十三回 恵み(grace, χάρίϛ,カリス)
「恵み」のギリシャ語カリスは、新約聖書で155回、そのうちパウロの手紙で87回(56%)使用されています。カリスの動詞形、つまり「恵む」は、カリゾマイ(χαρίζομαί)で、23回使われています。

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第二十二回 奥義(mystery,μυστήρίον、ミュステ―リオン)
【奥義の定義】「奥義」という言葉は、新約聖書で27回使用されていますが、マタイ、マルコ、ルカの福音書に各一回づつ使用され、パウロの手紙で20回、黙示録で4回使用されています。

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第二十一回 救い主(σωτήρ、ソーテール)
すでに私たちは、第七回でイエスが「キリスト」(χρστóς)であること、第八回でイエスが「主」(κύριος)であること、第十二回でイエスが「仲介者」(μεσιτης)であること、第十六回でイエスが「神の子」(υιος του θεου)であることを学びました。

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第二十回 再臨(παρουσία, パルーシア、second coming)
「再臨のギリシャ語パルーシア」
「再臨」のギリシャ語「パルーシャ」は、新約聖書では24回使用されていて、邦訳では、「来臨」、「来られる」、「到来」などと文脈に応じて異なった訳がなされています。

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第十九回 復活(άνλάστασις, アナスタシス、resurrection)
「ギリシャ語の復活」
ギリシャ語の復活のことばは「アナスタシス」ですが、新約聖書で42回用いられており、アナは「再び」、ないし「上に」、スタシスは「起き上がる」の意味があり ます。

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第十八回 宥めの供え物(propitiation,ὶλαστήριον,ヒラステーリオン) 
  「宥めの供え物」
宥めのそなえもの(ὶλαστήριον,ヒラステーリオン、propitiatiomないしatonement)について考えてみます。なお英語のpropitiation は宥めるという意味ですが、atonement は「償う」という意味があります。

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第十七回 神の愛(love of God、ἀγάπη,アガペー)  
  「新約聖書における神の愛」
神の愛は、ギリシャ語でἀγάπη,アガペーと言います。皆様も聞かれたことがあるかと思います。

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第十六回 神の子(son of God,ὀ υὶος του θεου,ホ ヒュイオス トゥー セウー)  
  「イエスは神の御子」
「神の御子」という表現は、新約聖書に45回使用され、主に福音書に登場します。 「神の子」は、イエスに対して使用される場合、

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第十五回 永遠のいのち(everlasting life,ζωή αἰώωιος,ゾーエ―・アイオーニオス)
「聖書における永遠のいのち」 
「永遠のいのち」という言葉は、新約聖書で43回使用されており、大半はヨハネの福音書の中にあります。

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「新約聖書における神の国の記述」
第十四回 神の国(kingdom of God、βασιλεία τοû θεοû, バシレイア・トゥ-・セウー)
新約聖書では、「神の国」はルカの福音書で32回、マルコの福音書で14回、マタイの福音書で4回、ヨハネの福音書で2回使用されています。

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第十三回 新生(regereration,παλιγγενεσία,パリゲネシア)
「新生のギリシャ語」
この新生(παλaιγγενεσία,パリゲネシア)というギリシャ語は、πἀλιν(再び)とγἐνεσις(生まれる)から成っており、

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第十二回 仲介者、μεαίτης,メシテ―ス,mediator)
「仲介者」
「仲介者」というギリシャ語である「メシテ―ス」は、新約聖書で6回用いられています。「中間に立ち、両者を結び合わせる人」という意味です。

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第十一回 和解(καταλλαγή カタラゲー、reconciliation)
「和解のギリシャ語」
和解という聖書のキーワードは、すでに述べた「贖い」や「義認」と同様に、罪の赦しや救いを意味する言葉です。和解のギリシャ語の名詞は、カタラゲー、和解するの動詞は、καταλλσσω(カタラソー)です。

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第十回 義認(δικαιὀω,ディカイオオー、justifucation)
「義と認める」
「義と認める」(δικαιὀω)という言葉は、新約聖書で39回使われ、特にローマ人への手紙で15回、ガラテヤ人への手紙で8回用いられています。多くは、「義と認められる」、つまり義とされるという意味で受動態で用いられています。

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第九回 贖い(λὐτρωσις(リュートローシス),άπολύτρωσις(アポリュトローシス)、Redemption)
「贖(あがな)う」
聖書で「贖(あがな)う」という場合には、代価を払って買い取る、ないし解放するという意味があります。奴隷解放が、イメージとしてわかりやすいと思います。奴隷を主人から、身代金を払って解放するという意味です。

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第八回 主(Lord,kύριος、キュリオス)
「主であるイエス・キリスト」
聖書では、イエスは救い主であると同時に主であると語っています。例えばペテロ第二の手紙2章20節では、「主であり、救い主であるイエス・キリスト」(IIペテロ2:20)とあります。イエスは、私たちの罪を負い、十字架にかかり、罪の赦しの道を開かれた救い主です。

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第七回 キリスト(Christ、Χρστός、クリストス) (2023、7、1)
「イエス・キリスト」
イエス・キリストは、大谷 翔平というように、姓と名前の関係ではなく、イエスこそがユダヤ人が待ちに待っていたキリストであることを指しています。それでは、キリストとはどういう意味なのでしょうか。クリストスというギリシャ語の言語は新約聖書に531回、パウロの書簡に383回用いられています。

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第六回 福音(εύαγγέλιον、エウアンゲリオン)(2023、6、1)
「福音ー良き知らせ」
聖書は、「福音」(エウアンゲリオン)という言葉を、93回も記しており、福音はgoodnews , 良き訪れを意味します。ギリシャ語のエウアンゲリオンのエウは、良いという意味で、アンゲリオンは知らせを意味します。聖書のメッセージは、福音にあるといっても過言ではありません。

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第五回 罪(ἀμαπτία、ハマルティア)(2023、5、1)
「罪と犯罪は同じではない」
聖書の中でもっとも重要ですが、同時に最も理解されていないのが罪という概念です。聖書のメッセージを聞かれた方が、「あなたは罪人です」と言われると、「そんなはずはない」と反感を露わにされるか、「みんな、同じだ、私だけではない」と開き直られるかどちらかです。

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第四回 人間(ἂνθρπος、アンスロポス)(2023、4、1)
「人間と動物の違い」
人間とは一体、どのような存在でしようか。ひとつの答えは、言葉を持っているかどうかです。私たちは、それぞれの母国語や習得した外国語で、同国人や外国人と会話し、考えを共有します。

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第三回 神(θεός、テオス)(2023、3、1)
「聖書における神の翻訳の歴史」
神は、聖書ではどのように翻訳されてきたのでしょうか。日本人で神を信じるという方は少なからずおられます。「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行法師

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第二回 契約(2023.2.1)
「聖書をどのように読むか」 
聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻によって構成されています。私たちは、聖書をどのように読んだらいいでしょうか。約2000年前に書かれた古典の書として読まれる方もおられます。あるいは人間がどのように行動すべきかの道徳の書として読まれる方もおられるかもしれません。

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第一回 クリスチャン(2023.2.1)
「クリスチャンとは何か」
クリスチャンとは一体どのような存在でしょうか。クリスチャンとクリスチャンではない人の違いとは一体何でしょうか。多くの人は、洗礼(バプテスマ)を受けているかどうかの違いと考えられると思います。洗礼が、クリスチャンかそうではないかの試金石だと思われるのです。

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新刊紹介

『28名の著名人と聖書-聖書の扉を開く』古賀敬太

これまで多くの著名人が、聖書の影響を受けてきました。この書物は、できるだけ多くの人に、聖書が彼らの生涯や著作に及ぼした影響を知ってもらいたいと思い、執筆しました。彼らの中にはクリスチャンもクリスチャンでない人も含まれていますが、人間のエゴイズムや死、生きる意味、神の存在など、人生の根本問題と格闘しつつ、聖書に触れた人々です。
著者:古賀敬太
価格:1,320円(税込)
ISBN978-4-901415-41-5
発売:伝道出版社

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聖書メッセージ82

乗松雅休(のりまつまさやす、1863〜1921)

ー朝鮮伝道に捧げた生涯ー

「乗松のプロフィール」

乗松雅休は、1863 年松山藩士乗松忠次郎の長男として現在の松山市で生まれます。彼は1887年に24歳で洗礼を受ますが、1888年にプリマス・ブレザレンの独立伝道者ハーバード・ブラント(1865〜1942)の影響を受けて、プリマス・ブレザレン(同信会)の伝道者となります。プリマス・ブレザレンで有名な人は、創始者のJ ・N・ダービー(1800〜1882)や孤児院の創設で有名なジョージ・ミュラー(1805〜1898)です。
プリマス・ブレザレンの特徴は、第一に聖書を誤りのない霊感された神のことばとして信じ、受け入れたこと、第ニに牧師制度を否定し、お互いに兄弟姉妹(ブレザレン)と呼ぶ教会形成を目指したこと、そこには聖職者と平信徒の違いはなく、牧師や先生と呼ばれることもありませんでした。第三に、毎週礼拝の時に聖餐式(パン裂き集会)を行い、パンとぶどう酒に与り、イエスの十字架の犠牲を記念したこと、第四に、キリストの再臨を熱心に待ち望んだこと、第五に日本国内外の伝道に熱心であったことです。
乗松は、最初、国内伝道者として働いた後、日清戦争後の1896 年に朝鮮伝道を志し、日本プロテスタント史上、最初の海外伝道者となります。彼は、最初京城(現在のソウル)で伝道した後、1900年8月にソウルの南郊外にある水原(スウォン)に移り、一時病気療養のため5ヶ月ほど帰国した期間を除き、1914年に帰国するまで、約14年間を水原で福音を宣べ伝えます。

「水原での伝道」

彼の宣教の特徴は、現地の人々と同じ生活をするということでした。朝鮮の服を着て、朝鮮の言葉で話し、住宅も食器も朝鮮式で、子供には朝鮮の言葉だけを教え、日本語は教えなかったそうです。また子供が四人いたにもかかわらず、極貧の生活中で伝道していました。彼は朝鮮の人と衣食住を共にし、朝鮮人になり切ろうとしました。そうした彼の姿勢から徐々に、現地の人々との心の扉が開かれ、乗松の福音宣教が実を結んで行きます。彼の伝道のことばは、簡単明瞭であり、「ハナニム(神様)は愛であって、罪の下に打ちひしがれている人類を救おうと独り子イエスをわれらにお送りくださった」というものでした。彼は市場でバイブルを片手に、天を仰いで祈り、「活けるキリスト」を伝えたり、戸別訪問をして静かに福音を説き、聞いている人に大きな感動を与えました。そこにはイエスが生きて働いている臨在感がありました。こうして乗松の働きが知られるようになり、水原の人々は乗松を尊敬するようになり、乗松の伝道によって約一千人の人がイエスに対する信仰を持ったといわれています。

「乗松の悲哀」

彼の朝鮮伝道における一番の試練は、1908年に乗松の最愛の妻で、彼の伝道を献身的に支え、三人の子供を育ててきた乗松常子が33歳で肺炎で召天したことでした。乗松は深い悲しみに沈み、「悲哀の人」であるイエス・キリストを慕い求めます。彼はその心境を、次のように述べています。

「私は、昨年以来しばしば『涙の谷』を過ぎ行くように導かれ、我が目に絶えず涙を流しています。自分のことをかえりみては、ただ大能の御手の下に自らを卑くして主の憐れみをこうのみです。我が霊をして切に『悲哀の人』である御方を思い慕います。涙をもってこのことを主に感謝せざるを得ません。」

彼は、神の慰めにより、この悲しみから立ち上がり、福音を宣べ伝え続け、1914年に帰国して、1921年に肺炎で小田原で召天しています。同じプリマス・ブレザレンの信者で、白洋舎の創業者である五十嵐健治が「骨は必ず朝鮮に埋めてくれ」という乗松の遺言に基づき、水原に遺骨を運んでいます。ちなみに五十嵐健二は、彼の生涯を描いた三浦綾子著『夕あり、朝あり』で知られるようになります。

「日韓保護条約、韓国併合、三・一独立運動」

朝鮮伝道は、日本の朝鮮支配に対する反発の故に障害の多いものでした。日本人であるというだけで嫌われるという逆風が吹いていました。
1905年に保護条約(第二次日韓協約)が締結され、韓国政府は日本によって安全保障と外交の権限を奪われます。1909年にはハルビンで当時の韓国統監府の統監であった伊藤博文が安重根によって暗殺された事件が起きます。この事件が象徴しているように、抗日運動はエスカレートしていきます。1910年には韓国併合が行われ、総督府による武断政治によって日本の植民地支配と朝鮮民衆に対する弾圧が強化されます。乗松が日本に帰国した後に起こった1919年には、朝鮮全土で三・一独立運動が発生し、水原では、独立運動の指導者とみなされた23名が日本軍や警察によって殺害され、暴動の温床とみなされた提岩里教会が焼き払われるという残虐な事件が起きています、これ以降水原は、日本に対する憎しみと怨念を象徴する代名詞となります。そうした中でも水原の人々の、乗松に対する尊敬と信頼は変わらず、乗松は今でも「暗闇の中に輝く光」として輝き続けています。

「乗松についての証言」

乗松によってイエス・キリストを信じ伝道者となったキム・テヒは、1921年2月14日の乗松の葬儀で、「 イエス・キリストは神様であるのに、人とおなりになった。この愛に励まされて、乗松兄は朝鮮の人を愛しました。世の中に英国人になりたい人は沢山あります。米国人になりたい人も沢山あります。けれども乗松兄は朝鮮の人になりました。この愛はいかなる愛でありましょうか。」
また同心会の詩人である李烈(イヨル)は、1979年に同心会の水原教会堂が建設された時、その献堂式で乗松について次のように述べています。
「私たちは、豊臣秀吉の日本を憎みます。伊藤博文の日本を憎みます。彼らは武力でわが国を踏みにじり、手練手管で我が民を籠絡(ろうらく)しました。しかし、かの名もなき乗松の日本を愛します。乗松のような善良な日本人を愛します。彼は、暗闇に閉じ込められた我が国に、真の光を証しするために参りました。絶望の底で、ため息をつく我が民に、いのちのみくにを望み見させました。彼は、韓国服を着、韓国語を語り、麦藁の家で、我が民の中でも一番貧しい人のように暮らし、我が国を自分の国よりも、自分のこどもよりも、もっと愛しました。」
1922年乗松は、水原で埋葬され、墓碑が設けられますが、そこには「生きるも主のため、死ぬるも主のため、始め人のため、終わりも人のため、その生涯まごころをつくして愛し、おのれ主の使命を帯びて、その一切の所有を捨てて、夫婦同心、福音を朝鮮に伝う。」と刻まれています。

参考文献

大野昭 「最初の海外伝道者、乗松雅休覚書」(キリスト新聞社、2000)
飯沼二郎『日本帝国主義下の朝鮮伝道』(日本基督教団団出版局、1985)
中村敏『日韓の架け橋となったキリスト者 乗松雅休から澤正彦まで』(いのちのことば社、2015)

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