特別企画|聖書特別メッセージ

聖書特別メッセージ
●日時:11月24日(日) 14:00〜15:00
●「ふたりの贖罪」

日本とアメリカ 憎しみを越えて
●入場無料・どなたでもお越しください。
NHKスペシャル・DVD上映!
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聖書のことば|11月

“神は、私が滅びの穴に下らないように、私のたましいを贖い出してくださった。私のいのちは光を見ることができる」と。” (ヨブ記33:28)
“He redeemed my soul from going down to the pit, and l will live to enjoy the light.” (Job,33:28)

お知らせ

当集会では聖書からわかりすくお話をしております。初めての方も大歓迎です。また消毒, 換気、social distance を取るなどの感染症対策を行っていますので、安心してお越しください。ただし、マスク着用に関しては、参加される方も当集会のクリスチャンも自由になっています。

読書会のご案内

●古賀敬太著『28名の著名人と聖書』(伝道出版社) 
●講師:古賀敬太    ※読書会は終了しました。

これまでの研究会の内容は、下記の動画から御覧下さい。
第1回「高山右近」
第2回「細川ガラシャ」
第3回「ドストエフスキー(1)ー『罪と罰』」
第4回「福沢諭吉」
第5回「内村鑑三」
第6回「パスカル」
第7回「夏目漱石」
第8回「芥川龍之介」
第9回「ヴィクトール・フランクル」
第10回「マルティン・ルター」
第11回「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ」
第12回「チャールズ・ディケンズ」
第13回「サン=テグジュべリ」
第14回「太宰治」
第15回「ドストエフスキースキー(2)-『悪霊』」
第16回「ドストエフスキー(3)ー『カラマーゾフの兄弟』
第17回「メーテルリンクー『青い鳥』

   [YouTube動画はこちら] 

新・聖書入門講座のご案内

聖書をわかりやすく読むために、新聖書入門講座を設けました。今回の講座は、集会所に集まって対面でおこなうものではなく、大津キリスト集会のHPでアップされる動画を見て、視聴者の方々が聖書に親しむ方式をとっています。

新聖書入門講座では、マタイの福音書を1年半ほどかけて読んでいきます。毎月、一章ないし二章の割合でアップしていきますので、連続して最後の28章までお聞きくだされば幸いです。

質問、感想があれば、下記フォームよりお問合せください。

お問合せフォーム

【動画のご案内】聖書入門ールカの福音書を読む

ルカの福音書を読みます。

ルカの福音書

【NEW】 No.25「迷える一匹の羊」ルカの福音書15:1〜10 動画を見る
【NEW】 No.26「放蕩息子のたとえ」ルカの福音書15 :11〜32 動画を見る
【NEW】 No.27「人生の逆転」ルカの福音書16:19〜31 動画を見る

「聖書入門―キーワードで読む聖書」

第二十一回 救い主(σωτήρ、ソーテール)
すでに私たちは、第七回でイエスが「キリスト」(χρστóς)であること、第八回でイエスが「主」(κύριος)であること、第十二回でイエスが「仲介者」(μεσιτης)であること、第十六回でイエスが「神の子」(υιος του θεου)であることを学びました。

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第二十回 再臨(παρουσία, パルーシア、second coming)
「再臨のギリシャ語パルーシア」
「再臨」のギリシャ語「パルーシャ」は、新約聖書では24回使用されていて、邦訳では、「来臨」、「来られる」、「到来」などと文脈に応じて異なった訳がなされています。

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第十九回 復活(άνλάστασις, アナスタシス、resurrection)
「ギリシャ語の復活」
ギリシャ語の復活のことばは「アナスタシス」ですが、新約聖書で42回用いられており、アナは「再び」、ないし「上に」、スタシスは「起き上がる」の意味があり ます。

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第十八回 宥めの供え物(propitiation,ὶλαστήριον,ヒラステーリオン) 
  「宥めの供え物」
宥めのそなえもの(ὶλαστήριον,ヒラステーリオン、propitiatiomないしatonement)について考えてみます。なお英語のpropitiation は宥めるという意味ですが、atonement は「償う」という意味があります。

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第十七回 神の愛(love of God、ἀγάπη,アガペー)  
  「新約聖書における神の愛」
神の愛は、ギリシャ語でἀγάπη,アガペーと言います。皆様も聞かれたことがあるかと思います。

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第十六回 神の子(son of God,ὀ υὶος του θεου,ホ ヒュイオス トゥー セウー)  
  「イエスは神の御子」
「神の御子」という表現は、新約聖書に45回使用され、主に福音書に登場します。 「神の子」は、イエスに対して使用される場合、

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第十五回 永遠のいのち(everlasting life,ζωή αἰώωιος,ゾーエ―・アイオーニオス)
「聖書における永遠のいのち」 
「永遠のいのち」という言葉は、新約聖書で43回使用されており、大半はヨハネの福音書の中にあります。

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「新約聖書における神の国の記述」
第十四回 神の国(kingdom of God、βασιλεία τοû θεοû, バシレイア・トゥ-・セウー)
新約聖書では、「神の国」はルカの福音書で32回、マルコの福音書で14回、マタイの福音書で4回、ヨハネの福音書で2回使用されています。

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第十三回 新生(regereration,παλιγγενεσία,パリゲネシア)
「新生のギリシャ語」
この新生(παλaιγγενεσία,パリゲネシア)というギリシャ語は、πἀλιν(再び)とγἐνεσις(生まれる)から成っており、

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第十二回 仲介者、μεαίτης,メシテ―ス,mediator)
「仲介者」
「仲介者」というギリシャ語である「メシテ―ス」は、新約聖書で6回用いられています。「中間に立ち、両者を結び合わせる人」という意味です。

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第十一回 和解(καταλλαγή カタラゲー、reconciliation)
「和解のギリシャ語」
和解という聖書のキーワードは、すでに述べた「贖い」や「義認」と同様に、罪の赦しや救いを意味する言葉です。和解のギリシャ語の名詞は、カタラゲー、和解するの動詞は、καταλλσσω(カタラソー)です。

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第十回 義認(δικαιὀω,ディカイオオー、justifucation)
「義と認める」
「義と認める」(δικαιὀω)という言葉は、新約聖書で39回使われ、特にローマ人への手紙で15回、ガラテヤ人への手紙で8回用いられています。多くは、「義と認められる」、つまり義とされるという意味で受動態で用いられています。

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第九回 贖い(λὐτρωσις(リュートローシス),άπολύτρωσις(アポリュトローシス)、Redemption)
「贖(あがな)う」
聖書で「贖(あがな)う」という場合には、代価を払って買い取る、ないし解放するという意味があります。奴隷解放が、イメージとしてわかりやすいと思います。奴隷を主人から、身代金を払って解放するという意味です。

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第八回 主(Lord,kύριος、キュリオス)
「主であるイエス・キリスト」
聖書では、イエスは救い主であると同時に主であると語っています。例えばペテロ第二の手紙2章20節では、「主であり、救い主であるイエス・キリスト」(IIペテロ2:20)とあります。イエスは、私たちの罪を負い、十字架にかかり、罪の赦しの道を開かれた救い主です。

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第七回 キリスト(Christ、Χρστός、クリストス) (2023、7、1)
「イエス・キリスト」
イエス・キリストは、大谷 翔平というように、姓と名前の関係ではなく、イエスこそがユダヤ人が待ちに待っていたキリストであることを指しています。それでは、キリストとはどういう意味なのでしょうか。クリストスというギリシャ語の言語は新約聖書に531回、パウロの書簡に383回用いられています。

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第六回 福音(εύαγγέλιον、エウアンゲリオン)(2023、6、1)
「福音ー良き知らせ」
聖書は、「福音」(エウアンゲリオン)という言葉を、93回も記しており、福音はgoodnews , 良き訪れを意味します。ギリシャ語のエウアンゲリオンのエウは、良いという意味で、アンゲリオンは知らせを意味します。聖書のメッセージは、福音にあるといっても過言ではありません。

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第五回 罪(ἀμαπτία、ハマルティア)(2023、5、1)
「罪と犯罪は同じではない」
聖書の中でもっとも重要ですが、同時に最も理解されていないのが罪という概念です。聖書のメッセージを聞かれた方が、「あなたは罪人です」と言われると、「そんなはずはない」と反感を露わにされるか、「みんな、同じだ、私だけではない」と開き直られるかどちらかです。

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第四回 人間(ἂνθρπος、アンスロポス)(2023、4、1)
「人間と動物の違い」
人間とは一体、どのような存在でしようか。ひとつの答えは、言葉を持っているかどうかです。私たちは、それぞれの母国語や習得した外国語で、同国人や外国人と会話し、考えを共有します。

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第三回 神(θεός、テオス)(2023、3、1)
「聖書における神の翻訳の歴史」
神は、聖書ではどのように翻訳されてきたのでしょうか。日本人で神を信じるという方は少なからずおられます。「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行法師

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第二回 契約(2023.2.1)
「聖書をどのように読むか」 
聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻によって構成されています。私たちは、聖書をどのように読んだらいいでしょうか。約2000年前に書かれた古典の書として読まれる方もおられます。あるいは人間がどのように行動すべきかの道徳の書として読まれる方もおられるかもしれません。

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第一回 クリスチャン(2023.2.1)
「クリスチャンとは何か」
クリスチャンとは一体どのような存在でしょうか。クリスチャンとクリスチャンではない人の違いとは一体何でしょうか。多くの人は、洗礼(バプテスマ)を受けているかどうかの違いと考えられると思います。洗礼が、クリスチャンかそうではないかの試金石だと思われるのです。

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新刊紹介

『28名の著名人と聖書-聖書の扉を開く』古賀敬太

これまで多くの著名人が、聖書の影響を受けてきました。この書物は、できるだけ多くの人に、聖書が彼らの生涯や著作に及ぼした影響を知ってもらいたいと思い、執筆しました。彼らの中にはクリスチャンもクリスチャンでない人も含まれていますが、人間のエゴイズムや死、生きる意味、神の存在など、人生の根本問題と格闘しつつ、聖書に触れた人々です。
著者:古賀敬太
価格:1,320円(税込)
ISBN978-4-901415-41-5
発売:伝道出版社

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聖書メッセージ80

国民の審判と神の審判

“人間には、一度死ぬことと死後にさばき(judgement)を受けることが定まっている。“(ヘブル書9章27節)

国民の審判
10月26日(日)、衆議院選挙がありました。国民の審判が下され、結果は自民党と公明党の与党の過半数割れで、少数与党内閣か、野党の連立による政権交代の可能性も出てきました。政局の流動化や危機は避けられない事態となっています。これほどまでの審判が下るのを、自民党は予測していなかったので、混乱状態にあります。これも、一連の不祥事ー統一教会問題、裏金問題(政治資金報告書不記載問題)などに対する国民の反感や批判を真摯に受け止めてこなかったことの代償ではないかと思います。

民主主義

リンカーンは、民主主義を定義して、「人民の、人民による、人民のための政治」(Government of the people,by the people,for the people)と定義しています。また民主主義は「国民主権」とも言われますが、その具体的な現れは、総選挙における国民の「審判」です。国民の審判があるということ自体が、政治に緊張感を与え、国民本位の内政・外交を行い、政治を腐敗から守るという力学を生み出しますが、政権が傲慢で、国民の声に耳を傾けず、政治の闇の部分にどっぷり浸かり、長年の権力支配に慣れすぎると、このような力学がうまれてきません。その意味において今度の総選挙の結果は、根本的な政治改革を迫るという点において、新たな道への第一歩です。

人生の審判
実は、私たちの人生においても審判があります。審判、ないし判定がない生活領域はありません。学生は試験を受け、必要単位を取得して卒業できるか、留年するかの判定を受けます。また多くの会社においては、会社員の働きの成果に応じて、ボーナスや給料、ないし役職などが決められます。

聖書が語る最も大事な審判
しかし聖書が語る最も大事な審判は、私たちに対する神の審判です。聖書に「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあるように、人間は、死後、神の前に立ち、自分の送った人生について総決算をしなければなりません。神に対する説明責任(accountability)があります。神の審判において大事なことが3点あります。

審判の主体
第1点は、誰が裁きの主体であるかです。総選挙であれば、国民、正確には有権者が審判を下す者です。卒業、留年の決定は教授会、会社員の成果の判定であれば、役員会などです。しかし私たちの人生全体を裁くのは、創造主であり、唯一なる神なのです。

審判が公平
第2点は、その審判が公平でなければなりません。公平であるためには、その人の全てが、特に隠された部分が明らかにされる必要があります。会社や学校での評価に批判が多い理由として、その評価が一方的に、また不公平になされるからです。神は全知であるお方なので、私たちのすべて、特に心の闇の部分を知っておられ、公平に裁かれる方です。この方の裁きは、完全で、私たちは人生の終わりにこの方の前にたたなければなりません。

審判の基準
第3点は、審判の基準です。現在、多くの大学で教員評価制度が設けられていますが、その基準は、研究業績、教育業績(学生の授業アンケート)、大学の委員会活動・社会活動です。しかし、神の前における審判の基準は、私たち一人一人がイエス・キリストを救い主として信じているか、それとも拒否しているかの、この一点だけです。そして審判の結果も、執行猶予、実刑判決、無期懲役、死刑など多くのものがあるのではなく、イエスを信じる者は永遠のいのちを与えられ、天国に迎え入れられるか、信じないで神の裁きに入っていくかの二者択一しかありません。

なぜでしょうか? それは、聖なる神の前に立った時に、誰も自分の人生の総決算において合格点をもらえず、神の基準に到達できないからです。聖書には、「誰も律法(良い行い)を行うことによっては神の前に義と認められない。」、「すべての人が罪の下にある。義人はいない、一人もいない」とあります。私たちが義と認められる、つまり罪赦され、永遠のいのちを得るためには、行いではなく、別の道、別の基準が必要です。

神の子イエス・キリスト
神は、私たちの罪を赦すために、神の子イエス・キリストをこの地上に遣わされました。イエス・キリストは私たちのすべての罪を負って十字架にかけられ、身代わりとして神の裁きを受けられました。そしてイエス・キリストを信じる信仰によって、義とされ、神に受け入れられる新しい基準を示されました。ローマ人の手紙に次のようにあります。

「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこには差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ書3:22〜24)

ただ心から信じるだけで、罪赦され、永遠の命が与えられることが神の審判=判定です。審判、ないし裁きを悪いことだけに解釈する必要はありません。神の審判は、悔い改め、イエスを信じるものに新しい人生と永遠のいのちへの道を指し示すのです。

ギリシャ語の裁き κρισιϛ(クリシスには、分離、区別するという意味があります。私たちが、私たちの人生において、神の審判を正しく位置付け、永遠のいのちへの道を選択できれば幸いです。

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