11月の福音集会
「人はなぜ壁を作るのか」
●11/10(日)
「帰れと呼びかける神」
●11/17(日)
「パリサイ人と取税人の祈り」
●11/24(日) 映画「ふたりの贖罪」
[詳細を読む]
聖書よりキリストの愛と救いをお知らせする大津キリスト集会(教会)
国民の審判と神の審判
“人間には、一度死ぬことと死後にさばき(judgement)を受けることが定まっている。“(ヘブル書9章27節)
国民の審判
10月26日(日)、衆議院選挙がありました。国民の審判が下され、結果は自民党と公明党の与党の過半数割れで、少数与党内閣か、野党の連立による政権交代の可能性も出てきました。政局の流動化や危機は避けられない事態となっています。これほどまでの審判が下るのを、自民党は予測していなかったので、混乱状態にあります。これも、一連の不祥事ー統一教会問題、裏金問題(政治資金報告書不記載問題)などに対する国民の反感や批判を真摯に受け止めてこなかったことの代償ではないかと思います。
民主主義
リンカーンは、民主主義を定義して、「人民の、人民による、人民のための政治」(Government of the people,by the people,for the people)と定義しています。また民主主義は「国民主権」とも言われますが、その具体的な現れは、総選挙における国民の「審判」です。国民の審判があるということ自体が、政治に緊張感を与え、国民本位の内政・外交を行い、政治を腐敗から守るという力学を生み出しますが、政権が傲慢で、国民の声に耳を傾けず、政治の闇の部分にどっぷり浸かり、長年の権力支配に慣れすぎると、このような力学がうまれてきません。その意味において今度の総選挙の結果は、根本的な政治改革を迫るという点において、新たな道への第一歩です。
人生の審判
実は、私たちの人生においても審判があります。審判、ないし判定がない生活領域はありません。学生は試験を受け、必要単位を取得して卒業できるか、留年するかの判定を受けます。また多くの会社においては、会社員の働きの成果に応じて、ボーナスや給料、ないし役職などが決められます。
聖書が語る最も大事な審判
しかし聖書が語る最も大事な審判は、私たちに対する神の審判です。聖書に「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあるように、人間は、死後、神の前に立ち、自分の送った人生について総決算をしなければなりません。神に対する説明責任(accountability)があります。神の審判において大事なことが3点あります。
審判の主体
第1点は、誰が裁きの主体であるかです。総選挙であれば、国民、正確には有権者が審判を下す者です。卒業、留年の決定は教授会、会社員の成果の判定であれば、役員会などです。しかし私たちの人生全体を裁くのは、創造主であり、唯一なる神なのです。
審判が公平
第2点は、その審判が公平でなければなりません。公平であるためには、その人の全てが、特に隠された部分が明らかにされる必要があります。会社や学校での評価に批判が多い理由として、その評価が一方的に、また不公平になされるからです。神は全知であるお方なので、私たちのすべて、特に心の闇の部分を知っておられ、公平に裁かれる方です。この方の裁きは、完全で、私たちは人生の終わりにこの方の前にたたなければなりません。
審判の基準
第3点は、審判の基準です。現在、多くの大学で教員評価制度が設けられていますが、その基準は、研究業績、教育業績(学生の授業アンケート)、大学の委員会活動・社会活動です。しかし、神の前における審判の基準は、私たち一人一人がイエス・キリストを救い主として信じているか、それとも拒否しているかの、この一点だけです。そして審判の結果も、執行猶予、実刑判決、無期懲役、死刑など多くのものがあるのではなく、イエスを信じる者は永遠のいのちを与えられ、天国に迎え入れられるか、信じないで神の裁きに入っていくかの二者択一しかありません。
なぜでしょうか? それは、聖なる神の前に立った時に、誰も自分の人生の総決算において合格点をもらえず、神の基準に到達できないからです。聖書には、「誰も律法(良い行い)を行うことによっては神の前に義と認められない。」、「すべての人が罪の下にある。義人はいない、一人もいない」とあります。私たちが義と認められる、つまり罪赦され、永遠のいのちを得るためには、行いではなく、別の道、別の基準が必要です。
神の子イエス・キリスト
神は、私たちの罪を赦すために、神の子イエス・キリストをこの地上に遣わされました。イエス・キリストは私たちのすべての罪を負って十字架にかけられ、身代わりとして神の裁きを受けられました。そしてイエス・キリストを信じる信仰によって、義とされ、神に受け入れられる新しい基準を示されました。ローマ人の手紙に次のようにあります。
「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこには差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ書3:22〜24)
ただ心から信じるだけで、罪赦され、永遠の命が与えられることが神の審判=判定です。審判、ないし裁きを悪いことだけに解釈する必要はありません。神の審判は、悔い改め、イエスを信じるものに新しい人生と永遠のいのちへの道を指し示すのです。
ギリシャ語の裁き κρισιϛ(クリシスには、分離、区別するという意味があります。私たちが、私たちの人生において、神の審判を正しく位置付け、永遠のいのちへの道を選択できれば幸いです。