聖書メッセージ16「真の自由について」

第16回「真の自由について」

東京の国会図書館の入り口から入ると正面にギリシャ語で、「真理はあなたがたを自由にする」と書かれてあります。この言葉は、「あなたがたは、真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)いう聖書のイエス・キリストの言葉からの引用なのです。

ところで、私たちは本当に自由でしょうか?

若い人々と話していると、父親や母親によって規制されて、思っていることが自由にできないと反発を覚えている人々が結構います。また世界には、言論や出版の自由が政府の厳重な管理下に置かれ、弾圧されている国もあります。例えば、2010年にノーベル賞を貰った中国の劉暁波(1955-2017)のように反政府運動の故に国家転覆扇動罪で投獄され、2017年に死の直前に釈放されたことも、記憶に新しい悲劇的事件です。

また日本では、自由民権運動の闘士板垣退助(1837-1919)のように、暴漢に襲われて、「板垣死すとも自由は死せず」と藩閥政府の圧政に対して自由のために戦った闘士もいました。しかし、両親の権威や政府の抑圧的権力から解放されれば、人は本当に自由になることができるでしょうか?換言すれば、自由とは、外側からの強制から解放されることだけを意味しているのでしょうか?人が自立し、自由を行使できることは大事であり、人間の尊厳の証でもあります。しかし、それだけでは、不十分なのです。自由には、もう一つの側面があります。

聖書が語る自由は、私たちが一般に考える自由とは異なります。多くの人々が、内面的には、嫉妬や敵意、憎しみ、性欲、名誉心、プライドに支配されて生活しています。外側は自由であるが、内側は縛られて不自由である場合もあるのです。人類最初の殺人も兄カインが弟アベルを嫉妬によって殺害するという事件でした。

例えば、嫉妬は普通正常な人々の生活を狂わせ、人格を破壊していくものです。聖書は、この点について人は「罪の奴隷である」と人間に対する深い洞察力を示しています。聖書が自由について語る大事な点は、人が内面的に罪の支配から解放されて、真に自由な人間になることです。真に自由な人格が形成されていくことです。

それでは、何が私達を、内面的な罪の支配から解放することができるでしょうか?私たちはそのためには、自己を鍛錬したり、努力して良い人間になることが必要であると考えます。また何か優れた思想や世界観を身につければ、自分は内側から変わるのではないかと期待するのです。

しかしそうしようとすればするほど、また真剣であればあるほど、嫉妬、劣等感、競争心、敵意、性欲などにがんじがらめに支配されている自分のみじめな姿を発見するのではないでしょうか?パウロは、この罪との戦いを、「私は本当にみじめな人間です。誰がこの死のからだから、私を救い出して下さるでしょうか」(ローマ書7:24)と表現しています。それでは、一体救いはどこから来るのでしょうか ?

聖書は、「真理はあなたがたを自由にします」と語っています。それでは、一体真理とは何でしょうか ?イエス・キリストは言われました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と。私は、この言葉を読んだとき、衝撃をうけました。

なぜなら、真理は、思想、イデオロギー、書物にあると思っていたからです。しかし、ここを読んで、真理とは人格であり、神の子イエス・キリストそのものであることに目を開かせられました。人を真に解放することのできるものは、死んだいのちのないイデオロギーや世界観などではなく、神の子イエスの生ける人格なのです。私はその時にイエス・キリストとの出会いを経験したように思いました。

イエス・キリストは、まったく罪のないお方であるにもかかわらず、愛の故に私たちのどうしようもない罪を負い、死んでくださいました。「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)そして、3日目に墓を打ち破って甦えられ、今目には見えませんが生きておられる救い主です。

そして、聖書は、自分の罪を認め、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れる者は、罪を赦されるだけではなく、罪の支配から解放されて、愛と希望の人生、そして真の自由な人生を歩むことができると約束しています。冒頭の国会図書館の言葉は、そのことを私たちに語りかけています。キリストにチャレンジしてみられませんか。

大津集会では、わかりやすく、聖書を学んでいます。皆さまが、教会のドアをノックされることを心から歓迎いたします。Welcome!!

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