聖書メッセージ12「二種類の衣装」

第12回「二種類の衣装」

人の価値は一体何によってきまるのでしょうか?昔イギリスの文学者カーライル(1775-1881)は、『衣装哲学』という本を書きました。その主旨は、人間はいろいろな衣服を着ているために、人間それ自身の価値ではなく、衣服の価値で人間が評価されるというのです。聖職者の服をきていれば、それだけで、信仰があるかないかにかかわらず、宗教家として認められます。立派なスーツを着ていれば、それだけで紳士と思われます。衣服は人間社会に必要なものであるけれども、時として人間の真の姿を覆い隠してしまいます。したがって、すべての衣服を脱いで、赤裸々な人間の姿から出発する必要があるというのです。

実際人間は、外側に付着する衣服―ある場合には健康、ある場合には職業、ある場合には学歴、ある場合には財産、ある場合には名声などの衣服によって他者の価値を無意識のうちに評価し、自分をも評価しているのです。しかし、そこでは、最も大事な問いが押し込められています。つまり、この私とは一体何ものか、私はどこから来て、どこに行くのか、私は何のために生きているのか、死をこえた希望はあるのか?です。こうした根本的な内からの叫びを抑圧し、その時々の衣装をまとい一喜一憂しながら、人は確実に死にむかっているのです。

東大出であるとか、オックスフォード大学に留学したとか、高級官僚であるとか、政治家であるとか、それはすべて衣装です。それは、きらびやかに見えます。人が注目するのです。しかし、衣装の中の私は、一体どのようなものでしょうか。そのような衣装の内側では、醜い人間の姿が心を支配しているのではないでしょうか。イエス・キリストは、福音書の中で、当時のユダヤの偽善的な宗教的指導者に対して「白く塗った墓」であると批判されました。外目には白く美しいように見えるけれども、墓の内側は死体の腐敗と異臭で満ちているというのです。それは、批判のための批判ではなく、彼らが自分の真の姿を知るためにというイエス・キリストの愛から出たものでした。

それでは、どうしたら私たちは、自分たちの衣装を脱ぎ、自分の真の赤裸々な姿に向き合うことができるのでしょうか。実は、人は自分でその衣装を脱ぐことができないのです。脱ごうとすればするほど、しがみつくのです。しかし、聖書を通して、聖なる神の前に出る時、赤裸々な自分の姿が映し出されます。

“神のことばは生きていて、力があり、両刃のつるぎよりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえもさし通し、心のいろいろなはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の眼にはすべてが裸であり、さらけ出されています。私たちは、この神に対して弁明をするのです。”(へブル4:12,13)

この創造者なる神の前に自分の罪を認めてへりくだり、こうべを垂れ、悔い改める時、神は、イエス・キリストのゆえに、私たちの罪を赦し、一切の衣装をはぎとってくださいます。そして、その代わりに、比べ物にならいほどすばらしい新しい衣装を着せてくださいます。裸でどうしようもないものであることを認めることから出発しますが、そこで終わらないのです。新しい衣装、イエス・キリストの衣装が与えられるのです。

アウグスチヌスは、若い時に放蕩に身を崩していました。敬虔な母モニカの熱心な忍耐深い祈りによって、アウグスチヌスはものすごい葛藤を経験した末、に、神への信仰へと導かれます。その時にアウグスチヌスに示された聖書の言葉は、ローマ書13章12-14節でした。

「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはなりません。」

自分の醜さを様々な衣装によって覆い隠し、あたかも立派なように見せかけるのではなく、また開き直って自分の欲や罪に自らを委ねるのでもなく、神の前に悔い改め、イエス・キリストを信じ、キリストの衣装を着て、新たな希望のある豊かな人生を選び取るようにというのです。このキリストの聖い愛の衣に比べれば、学歴、健康、財産、名誉、顔かたちといった衣装は、見劣りがしますし、一時的であり、人間の価値を真に保証するものではないのです。

大津集会では、神のことばである聖書から、人間とは何か、神はどのようなお方か、どうしたら人間は神を知り、神に帰ることができるかを学んでいます。皆様が教会の戸を叩かれることを願っています。

Follow me!