聖書メッセージ03「悲しみよ ありがとう」

第3回「悲しみよ ありがとう

“悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから・”(マタイ5:4)

この聖書の言葉は、イエス・キリストが弟子たちや群衆に語られた山上の垂訓の一節です。「悲しむ」という英語にmourn(嘆き悲しむ)という言葉が使われているように、この言葉は、死者に対する嘆きを表す最も深い悲しみなのです。

この聖書の言葉を読む人は、反感を覚えられる人がいるかもしれません。中には、「悲しむ者は幸いです」とは何たることだ、人の心の痛みを理解しないやつだと思われるかもしれません。しかし、このイエス・キリストの言葉は、逆説的ですが、最も深い真理の一面を示しているのではないでしょうか。悲しみを通してしか知ることのできない人生の真理があるのです。

内村鑑三の弟子で、戦後東大総長を務めたこともある矢内原忠雄は悲しみについて次のようにのべています。「悲しみのない人生は、晴天続きの都会のように、乾燥しすぎてほこりがたつ。悲しみは人生のうるおいです。悲しみに潤されて、人は永遠を思います。悲しみは永遠の窓であります。悲しみから見た人生に永遠の香があります。この世にこびりついて離れがたき人の目を、神にむかい、永遠に向かって開くものは悲しみであります。」

悲しみは、永遠の窓、神に向かう窓だというのです。悲しみを通して、神であるイエス・キリストに出会い、イエス・キリストによって慰められるというのです。悲しみによって心を支配され、打ち倒される人生ではなく、悲しみを積極的に受け止め、そこから立ち上がり、新しいキリストにある素晴らしい人生をスタートすることができるというのです。

「瞬きの詩人」と呼ばれ、脳性麻痺という苦しみを通してイエス・キリストに出会った水野源三氏は、イエス・キリストの十字架の愛に触れ、「悲しみよ」という詩で次のように書いておられます。

「悲しみよ、悲しみよ 本当にありがとう。
お前がこなかったなら、つよくなかったなら
私は今どうなったのか。
悲しみよ、悲しみよ お前が私を
この世にはない大きな喜びが
かわない平安がある。
主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ。」

大津集会は、疲れている人々、重荷を負っている人々、悲しみの中にある人々が、勇気を持って教会のドアをたたかれることを心から歓迎いたします。

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