湧き水である神様

救いの証し F兄弟

「湧き水である神様」

2013年4月21日 琵琶湖でのバプテスマを記念して

私の人生観

F兄弟のイラスト

私は、1960年に東京の下町で生まれ、その後、東京と埼玉で育ちました。26歳の時結婚をして、現在、1男1女の子供がいます。7年半前に転勤により、妻と娘と一緒に滋賀県の大津に来ました。昨年家族は、大学生の息子がいる関東に戻り、私は単身生活になりました。

今までは、仕事や家族のことで日々忙しい生活をしていました。ほとんどのエネルギーをこの2つのことに使っていたと思います。単身生活になってからは、自分の自由な時間が生まれました。自分の人生について、ゆったりと考えるようになりました。「私の支えになっているのは家族であり、自分の将来の計画を立てて自己実現していく。そして、広義の社会貢献をしていく。」こんな人生をあゆんでいきたいとおぼろげながら考えていました。自分のみずがめを満たし、さらにまた繰り返し満たしていくことが、私の人生観であったと思います。

クリスマスの案内状

2012クリスマス
そこへ偶然にも、町でトラクト(案内状)を渡されました。クリスマス会の案内でした。何か温かみのある感じがしたので、後日足を運びました。これが、「大津キリスト集会」との出会いであり、始まりの一歩です。何回か顔を出すうちに、人生の深い意義について問いかけられている思いがしました。

人生の錨という聖書のメッセージ

「人生の錨(いかり、Anchor)は、何であるか?」「人間は罪人である」という聖書の重いことばは、今まで自分が生きてきた人生観とは、まったく違うものでした。
「人生の錨(Anchor)」という聖書のメッセージを聞いて、自分のAnchorについて考えさせられました。それまで自分にとってAnchorは、家族であり、自己実現でありました。しかし、メッセージを聞いて、それが間違いであり、自分の中に真のAnchorがないことに気づきました。そしてそのAnchorは、環境に左右されない不動のものでなければならないと思うようになりました。そして、その不動のAnchorをイエス・キリストに求めたいと思い始めました。そうしているうちに、毎日、新約聖書を読み始めるようになりました。「人としての道しるべ」が書かれているのではないかと思いながら読んでいきました。特にローマ人への手紙を読んでいく中で、律法との関係で自分の罪を知るようになりました。同時に、聖書の解説のテキストをお借りして読んでいた時に、「水ための話」が心に焼き付けられました。それは、「私の民は二つの悪を行った。湧水の泉である私を捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを。自分のために掘ったのだ。」(エレミヤ2章13節)

湧き水の泉である神様

人は、いくら心の水ためを満たそうとしても自分の力で満たし尽くせないということに、この聖書の御言葉で気づかされました。罪や醜い心を持っている人間は、罪から逃れられません。結局の所、自己中心的な考えや傲慢な心に自分の心を支配されていることがわかりました。自分の力では、どうすることもできません。私は、「湧き水の泉である神様」に帰ろうと思いました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じるものは、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネの福音書7章37,38節)

バプテスマを受ける決心

私は、イエス様が十字架にかかり、死をもって私の罪の罰を受け、3日目に復活してくださったことを知り、イエス様を主として私のこころの中に受け入れたいと思い始めました。そして、信仰告白を2月3日に行いました。
「私は罪人であり、ちっぽけな人間です。この私のために、イエス様が十字架にかかって死んでくださったことを感謝しています。イエス様を心の中に受け入れて、新しい人生を歩んでいきたいと思います。」この信仰告白のように、これからの人生を主イエス様の導きにしたがって歩んでいきたいと思い、バプテスマを受ける決心をしました。これからこの福音を家族や知人に伝えていこうと思っています。

私の好きなみことば

最後に私の好きなみことばを書きます。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(ヨハネの第一の手紙 4章10節)

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