第29回 忍耐(perseverance,ὑπομονή,ヒュポモネー)

第29回 忍耐(perseverance,ὑπομονή,ヒュポモネー)

 前回取り上げた「聖徒」と同様に、意味内容を理解するのが難しいのが「忍耐」です。日本では朝のドラマで1983〜1984年におしん」が放映され、大人気になりましたが、そこでは忍耐とはどんな困難の中にあっても自力で耐え忍ぶことが奨励されました。私も小さいころ、祖母から「へこたれてはいけない」と何度も注意された経験があります。忍耐という漢字も、「忍んで耐える」と書きますので、そういうイメージを自然とかもしだすのです。しかし聖書が言っている。「忍耐」(ヒュポモネー)はそれとは全くことなります。

「忍耐(ヒュポモネー)に用いられ方」

忍耐は名詞として新約聖書で30回、動詞の忍耐する(ὑυπομένειν,ヒュポメネイン)は、15回用いられています。ここでは、「忍耐」を信仰と希望という言葉との関係でその意味内容を明らかにしたいと思います。
 第一は、忍耐は、「苦難」ないし「試練」 における信仰との関係で用いられています。例えば、パウロは、「苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」(ローマ書5:3~4)と語り、コリントの兄弟姉妹に対して「あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています」。(Ⅱコリント1:4)と勧めています。忍耐とは、苦難に耐えることであることは間違いがありませんが、それは神の導きと支えに対する信頼があって初めて可能になるもので、ただひたすら耐え忍ぶこととは異なります。忍耐は信仰なくしては難しいのです。Ⅱコリント1:4節には「忍耐と信仰」とありました。ヤコブ書には、「信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。」(ヤコブ1:2~3)とあり、信仰と忍耐が不可分のものとして理解されています。忍耐とは、信仰の忍耐ともいうべきもので、主のみわざと介入を待ち望むものです。

第二に「忍耐」は希望と関係して用いられています。先行き不透明な状況でただ辛抱することとは異なります。すでに述べたローマ書(5;3~4)では、苦難→忍耐→練られた品性→希望という関係があり、忍耐は希望を生み出すものです。パウロは、ローマ書15:4で「それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。」と書き記しています。しかし同時に苦難に耐える力は、キリストに対する信仰や望みによって生み出されます。パウロは、「私たちの父である神の御前に、あなた方の信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐(ヒュポモネー)を たえず思い起こしているからです。」(1テサロニケ1:3)と記しています。

バークレーという聖書注解者は、「忍耐」について以下のように述べています。
「座って頭を垂れ、ことがふりかかるままにし、嵐が過ぎ去るまで受動的に耐えるのが忍耐ではない。—単に耐え忍ぶことではない。ただあきらめるのではなく、燃えるような希望を持って物事に耐える心、一か所にじっと耐える心である。終わりを待つ不屈の忍耐ではなく、夜明けを待つ輝く希望の忍耐である。—-苦痛の彼方に目標を見るがゆえに、最も激しい試練をも栄光へと変える徳である。」

Follow me!