第28回 聖徒(saints,ἁγίοί,ハギオイ)

第28回 聖徒(saints,ἁγίοί,ハギオイ)

「聖徒のあやまった理解」

聖書のなかで「聖徒」という言葉が出てくると、クリスチャンの中でも特別の聖なる存在と考える間違った理解があります。例えばカトリック教会で言われる「聖人」とは、「生存中にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した人」で、殉教もその中に含まれます。「聖人」の認定は、本人の死後厳密な手続きを経て行われ、聖ペテロ大聖堂で「列聖式」が行われます。例えば日本との関係ではフランシスコ・ザビエルや殉教した26聖人などが「聖人」として認定されています。「聖徒」をカトリックの言う「聖人」というイメージで理解すると、聖書の真意を理解することができません。ある高名な聖書注解者は、「聖徒という言葉ほど新約聖書の中で間違って理解されているものはない。辞書でさえも、聖徒を「生活の清さ」が公に認められた者」と定義しているほどである。」と書いています。

「聖なるの意味」

「聖徒」の聖なるという形容詞は、ギリシャ語で「ハギオス」と言いますが、これはこの世から分離されていることを意味します。聖書では、神が「聖なる」(ハギオス)と呼ばれています。例えば「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全農者。昔おられ、今おられ、やがて来られる方」(黙示録4:8)に「ハギオス」が用いられています。ここでは「聖なる」は、罪や地上の腐敗から隔絶、分離されていることを意味します。
同時に、「聖徒」(ハギオイ)とは、キリストによって罪赦され、この地上の罪と死の支配から分離・解放されてキリストの支配に移されたものという意味で、すべてのクリスチャンを意味します。それは立場を示すものであり、どれだけ清められた生活をしているかという状態とは関係がありません。「聖徒」はパウロの手紙の中では42回も使用され、例えば「ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ」(ローマ書1;7),「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」(Ⅰコリント1:2)、「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを立て上げるためです。」(エペソ書4:12)などがそうです。「聖徒」、つまり「分離された者」はクリスチャンの立場を明瞭にしめす言葉なのです。それは、行いや業績によって得られるものではなく、ただ恵みによって得られるものです。なお分離という意味での聖なるという形容詞がつく事例は「聖徒」以外に「聖霊」、「聖所」などがあります。

「ハギオスとカサロス、聖いと清いの相違」

分離されていることを意味する「ハギオス」とは異なり、「清い」という心の状態を意味するギリシャ語としては、「カサロス」(καθαρόϛ)が用いられています。最も有名な言葉としては、例えば「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(マタイ5:8、4:8)があります。更に、テモテの手紙では、「清い心」(Ⅰテモテ1:5,Ⅱテモテ2:22)、「清い良心」(1テモテ3:9、Ⅱテモテ1:3)の「清い」にカサロスが用いられています。

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