第19回 「聖書入門ーキーワードで読む」
第十九回 復活(άνλάστασις, アナスタシス、resurrection)
「ギリシャ語の復活」
ギリシャ語の復活のことばは「アナスタシス」ですが、新約聖書で42回用いられており、アナは「再び」、ないし「上に」、スタシスは「起き上がる」の意味があります。『新約聖書第ギリシャ語小辞典』では、第一に倒れていた者が起き上がること、第二に、死者の復活、よみがえりの意味があります。ここでとりあげるのは、第二の意味です。特にイエス・キリストの復活について考えたいと思います。「アナスタシス」の動詞形は、よみがえるの「アニステーミ」(άνίστημι)で、108回用いられています。
実は「復活」を意味する動詞には「ア二ステーミ」以外に「エゲイロー」(έγειρυω)があります。例えば第一コリント書15章3、4節には、パウロが最も大事なこととして伝えたことに、「キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと」が記されてありますが、ここではエゲイローの完了受動態の「エゲーゲルマイ」(έγήγρμαι)が用いられています。また使徒の働き2章32節には「神はこのイエスをよみがえらせました。わたしたちはみな証人です」には、「アニステーミ」のアオリスト時制(すでに起こったことで反復しない)が用いられています。
「キリストの復活―他の宗教との違い」
キリスト教を他の宗教から区別するものは「復活」です。他の宗教の創始者の釈迦、孔子、ムハンマドも教典は残しましたが、死んでしまいました。ただイエスだけが、墓の中からよみがえられたのです。聡明なイギリスの法律家であるフランク・モリソンは、復活はかって人類に伝えられた最もばかげたでっちあげだと考え、反論を試みましたが、調べれば調べるほど復活が事実であることを確信し、当時ベストセラーになった書物『動いた墓石』という書物を書きました。
渋沢栄一は一九一七年に米国に行った時に、米国のデパート王のワナメーカーに教会の日曜学校に招待され、何か話すように依頼されたので、渋沢は、「私は孔子の教えを記した論語を毎日読んでいる。私は、儒教もキリスト教も同じであると思う」と語ったそうです。その時にワナメーカーは、涙を流して立ち上がり、次のように言いました。
「私は儒教に対して心からの尊敬を表します。今東洋の紳士が、キリスト教も儒教も同じだと言われましたが、私は絶対に違うと思います。その間に根本的違いがあります。孔子は死んで葬られました。そしてそのまま眠っています。キリストも一度は死んで葬られました。けれども彼はよみがえったのです。三日目の朝によみがえったのです。彼の墓は、空になりました。キリストは今も生きています。そうです。現にこの部屋の中に、私たちの中におられます。」
そしてワナメーカーは、小さな聖書を取り上げて、「ここにイエスの言葉があります。これは生ける言葉です。私たちは生ける神のことばをこの書物の中に読むことができます。」と語りました。
「復活の信憑性」
それでは、イエスの復活の証拠はどこにあるのでしょうか?イエスの遺体は墓に葬むらましたが、日曜日には、もう遺体はなく、遺体を巻いた亜麻布だけがありました。誰かが、例えば弟子たちがイエスを盗んでいったという説もありますが、番兵が監視していたので難しかったと思います。それ以上に実際にイエス・キリストが復活した身体を弟子たちや500人以上の信者に現わされました。イエスの復活の証人がたくさんいるのです。裁判において有罪か無罪かを決める際に大事なのは信用できる証人です。証人の証拠が採用されて、事実が確定されます。
弟子たちが、願望のあまり、イエスが死んでいるにもかかわらず、復活したと嘘をついたと考える人々がいますが、神を畏れる弟子たちが嘘をついたとは考えられません。また弟子たちは、イエスの復活に出会って変えられ、生涯をかけてイエスに従う道を選びました。嘘であればそのような献身的行為は不可能だったでしょう。
「弟子たちの宣教―復活」
弟子たちは、復活されたイエスと会い、イエスはよみがえられたと宣べ伝えました。例えば、「使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証し、大きな恵みが彼等全員の上にあった。」(使徒4:33)と記されてあります。またペテロは、「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(使徒2:32)と語っています。弟子たちの福音宣教の原動力、そして中心はイエスの復活であったことがわかります。。
「復活の意味―5つのポイント」
イエス・キリストの復活は、私たちにとってどのような意味をもっているでしょうか。5つのポイントで考えてみたいと思います。
第一点は、復活を通してイエスが神の子であることが明らかに示されました。ローマ書には、「死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ書1:4)とあります。
第二点は、イエスの復活は、神の前において信者が罪赦され、義とされたことを保証するものです。この点についてローマ書は、「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに、死にわたされ、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ書4:25)と記しています。
第三点は、イエス・キリストの復活により、キリストは、「死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されました。」(Ⅱテモテ1;10)復活は、イエスが死に勝利され、(Ⅱテモテ1:10)、死の力を滅ぼされた事を示しています。
第四点は、イエスの復活は、信者の復活のしるしです。聖書によれば、イエスの復活は、イエスを信じるクリスチャンの復活の初穂です。クリスチャンも、イエスが来られるときに復活する約束があたえられています。その復活の身体とは、栄光あるからだ、御霊のからだ、天上のからだ、朽ちないからだです。聖書は次のように約束しています。
「聞きなさい、私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることに なるのではなく、変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:51-52)
死者の復活はイエスの再臨の時に起こるので、復活と再臨は密接な関係にあります。聖書は死者の復活がなければ、イエスも復活されなかったと書き記しています。
最後に第五点として、イエスの復活は、イエスがいまも生きておられることを意味しています。クリスチャンが信じるのは、死なれたイエス・キリストではなく、よみがえって今も生きておられるイエス・キリストです。パウロは、「キリストがよみがえらなかったならば、私たちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」(Ⅰコリント15:14)と指摘しています。
是非、イエスの「十字架」と「復活」を信じて、福音を自分のものとしてください。