第18回 「聖書入門ーキーワードで読む」

  第十八回 宥めの供え物(propitiation,ὶλαστήριον,ヒラステーリオン)
 
聖書が示す救い、つまり罪の赦しを示す言葉として、すでに第九回で「贖い」(リュートローシス、redemption)、第十回で義認(ディカイオオー、justification)、第十一回で和解(カタラゲー、reconciliation)、第十三回で新生(パリゲネシア、new born)について考えてきました。今回は、宥めのそなえもの(ὶλαστήριον,ヒラステーリオン、propitiatiomないしatonement)について考えてみます。なお英語のpropitiation は宥めるという意味ですが、atonement は「償う」という意味があります。ヒラステーリオンには、この二つの意味があります。神の怒りが宥められるためには、罪の償いがなされる必要があるのです。「ヒラステーリオン」は、動物の血が流されて、一時的に罪の赦しがなされていた旧約聖書の祭祀制度を用いて、イエス・キリストの十字架の犠牲の意味を理解するために重要な言葉です。
 
「旧約聖書における宥(なだ)めの供え物」
 
旧約聖書では、人間の罪が一時的に赦されるために子羊や子牛がいけにえとして捧げられ、祭壇の火で燃えつくされるという習慣がありました。それによって神の罪に対する怒りが宥められるというものです。しかし新約時代において、ほふられ、神の怒りを宥めて下さったお方は、神の子のイエス・キリストです。旧約の贖いの儀式において用いられていた「宥め」は、新約聖書においてはイエス・キリストにおいて実現します。この宥め(ヒラステーリオン)が新約聖書でどのように用いられているかを見てみましょう。なお宥めるの動詞は「ヒラスコマイ」(ὶλάσκομαι)です。
 
「新約聖書における宥めの供え物」
 
「ヒラステーリオン」という言葉は、第一ヨハネの手紙で二度、ローマ人の手紙で一度用いられています。第一ヨハネの手紙4:10節では、「宥めの供え物」としてのイエス・キリストについて書いてあります。
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの供え物(ίλασμὸν,ヒラスモン)としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
 またヨハネの第一の手紙の二章二節においては、「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけではなく、世全体の罪のための宥めのささげもの(ὶλασμὀς、ヒラスモス)です。」とあります。
 つまり、神の怒りが宥められ、罪人である人間にあわれみと恵みが注がれるように、イエスは身代わりとして神の怒りを受けて下さったのです。
また「ローマ人の手紙」では、以下のようにしるされてあります。
「神は、この方を信仰によって受けるべき、血による宥めのささげもの(ίλαστήριον、ヒラステーリオン)として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで冒されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、御自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」(ローマ書3:25~26)
 ここには二つの真理が示されています。第一は、神がご自身の義、正しさをイエスの十字架の死を通して示された事、第二に、イエスを信じる者を義と認めてくださったこと、つまり罪を赦してくださっ
たことです。
 
「贖いのふた」
 
しかし、「ヒラステーリオン」には、もう一つの意味があります。「新約聖書ギリシャ語小辞典」では、贖いのふた、贖罪蓋という意味があります。幕屋には、聖所と至聖所があり、至聖所には契約の箱があり、その上に金の蓋が置いてて在り、その上にケルビムが翼をひろげて覆っています。まさに贖いのふたは、神が臨在されるところでした、
 そして一年に一回行われる贖いの日には、大祭司が至聖所に入り、贖いの蓋に動物の血を注ぎ、民の罪の赦しがなされていました。へブル書9:3~5節には、以下のようにあります。
 「また第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋があり、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、墓の中には、マナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の板がありました。また箱の上で、栄光のケルビムが「宥めの蓋」(ヒラステーリオン)をおおっていました。」
ここで、ヒラステーリオンは「宥めの蓋」(新改訳2017)ないし「償いの座」(新共同訳聖書),あるいは「贖いの蓋」と訳されており、英語聖書NIV(new unternational version)ではmercy seat(恵みの座)と訳され
ています。まさにイエス・キリストご自身が、「宥めの蓋」ないしmercy seatなのです。
   旧約時代には、民の罪を赦すために、この「宥めの蓋」の上と前にいけにえの動物の血が幾度も注がれました。しかし神の御子イエス・キリストはただ一度だけ「宥めの供え物」となって血を流して下さり、罪の赦しをなしとげてくださいました。聖書は、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(へブル10:10)と語っています。「ただ一度だけ」(once for all)はこれで終わりという意味です。もはやこれ以上必要ないということです。イエス・キリストが罪の赦しを一度で完成された所に、旧約の動物の犠牲との違いがあります。
   今日は「ヒラステーリオン」について学びましたが、少し難しかったかもしれません。しかし、この言葉は重要な言葉です。というのもこの言葉は、罪に対しては神の怒りが下されること、そしてその神の怒りをイエス・キリストが代わって受けられ、私たちひとりひとりに救いの道を開いて下さったことを、示しているからです。

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