第17回 「聖書入門ーキーワードで読む」

第十七回 神の愛(love of God、ἀγάπη,アガペー)
 
「新約聖書における神の愛」
 
神の愛は、ギリシャ語でἀγάπη,アガペーと言います。皆様も聞かれたことがあるかと思います。このアガペーという言葉は古典ギリシャにはなく、聖書ギリシャ語(コイネー)において初めて出て来る言葉です。言葉がなかったというのは、アガペーが示す愛の実践が行われていなかったことを意味します。それほど、アガペーは特別の意味を持った言葉です。ちなみにアガペーは、新約聖書に116回使用され、特にヨハネの福音書に37回用いられています。アガペーの動詞形の愛するはἀγαπω、アガパオ―で、新約聖書に143回用いられています。アガペーは主に神が人を愛する場合に用いられます。
 
 「四種類の愛」
 
ギリシャ語には神の愛を示すアガペー以外に、情念的で性的な愛を意味するエロース(ἒρως)、友情をしめすフィリア(φιλια)、家族愛を示すストルゲー(στοργἠ)があります。この中で、新約聖書で使われている愛はアガペーとフィリアだけです。フィリアもストルゲーも美しいことばですが、親しい関係や家族愛に限定されており、自然的な情愛を示しています。フイリアの動詞形はフイレオー(φιλἐω)、ストルゲーの動詞形はステルゲイン(στἐγειν)です。それに対してアガペーは敵をも愛する愛であり、無条件な愛です。このような愛は、人間からは生まれてこず、まさしく神の愛、キリストの愛といえるでしょう。聖書は、「神は愛です」(Ⅰヨハネの手紙4;8)と書いています。それでは、神の愛の四つの特徴について考えて見ます。
 
 「神の愛の四つの特徴」

 第一点は、犠牲の愛です。自分を肥え太らせる愛、自己実現の愛ではなく、自己を相手に与える愛です。神の私たちに対する愛は、ご自身の一人子を十字架につけるほどのものでした。聖書のエベレストと呼ばれ、尤も親しまれている箇所を紹介します。
 「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じるものが一人も滅びることなく永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音書3:16)
  「人が自分のためにいのちを捨てること。これよりも大きな愛(アガペー)は誰も持ってはいません。」(ヨハネの福音書15:13)
 この神の与える愛に意識的に異議を唱えた文学者がいます。有島武郎(1878~1923)です。彼は、「惜しみなく愛は奪う」という(1917年)小説を書き、その中で「経験が私に告げるところによれば、愛は与える本能である代わりに奪う本能であり、放射するエネルギーである代わりに、吸引するエネルギーである」と述べています。彼にとって愛とは自己犠牲の愛ではなく、他者を自分の中に取り込み、他者を支配し、自己の欲望や本能、支配力を拡大していくものです。彼は、欲望や本能を制御するすべての拘束物を排除し、自己を太らせ、拡大していこうとします。利己的人間は、自己にのみ関心を持ち、与えることではなく、奪い取ることにのみ喜びを感じます。彼が確立しようとしている自我は、エゴイズムの自我です。慈善や人を助ける行為も、自分のため、自己実現のためなのです。
そして、有島が言う「惜しみなく奪う愛」こそ、私たち人間が親子の間で、恋人に対して示している愛ではないでしょうか。この書物を書いた有島武郎は、1923年6月に「婦人公論」の記者で夫がいる女性と心中自殺しています。

 第二点は、無条件の愛です。人間の愛は条件付きの愛です。相手が美人、美男子だからその人を愛する、相手がお金持ちだからその人を好きになる、相手がやさしいからその人を愛するというのは、条件付きの愛であり、結局報いを求めている愛です。しかし神の愛は無条件で、神に背を向け、神に反抗してきたものにも示される愛です。愛するに値するものを何も持たない者に示される愛です。
 「しかし、私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛(アガペー)を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:8)

 第三点は、神の愛は変わらないという事です。結婚式はドイツ語でHochzeitと言います。hoch は高いという意味です。しかし、人間の愛は、かわりやすいものです。結婚する前は二人の愛は頂点に達したとしても、結婚して、幻滅し、愛が冷え、離婚するもしばしばです。
文豪トルストイ(1828-1910)が書いた『アンナ・カレー二ナ』という有名な小説がありますが、貴族の婦人アンナには、政府高官でカレーニンという高名な夫がいましたが、若い魅力的な将校ブロンスキーという男性に惹かれて恋をします。社交界で、アンナ・カレーニナの不倫が問題となり、彼女はキャンダラスな女性というレッテルをはられます。彼女はブロンスキーを愛しますが、次第に恋人が自分を捨てて、別の女性と一緒になるのではないかと嫉妬と不安に駆られ、最後は駅に飛びつき、自殺してしまうのです。悲劇的な女性です。アンナ・カレーニナと同じ思いになった人々は多いのではないでしょうか。しかし、神の私たちに対する愛は変わらず、永遠に変わらないものです。
 “女が、自分の乳のみ子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、この私はあなたを忘れない。見よ。私は手のひらにあなたを刻んだ“(イザヤ書49;15)
  “たとえ山が移り、丘が動いても、私の真実の愛はあなたから移らず、私の平和の契約は動かない」。“(イザヤ54;10)

 第四点は、神の愛(アガペー)のイニシアティブを取られるのはいつも神ご自身です。私たちは自分を愛する者には愛を示しますが、なかなか自ら愛のイ二シアティブをとろうとしません。しかし、神はイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架につけ、ご自身の愛を示されました。クリスチャンとは、その神の愛に応える者です。
 「神はその一人子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを与えてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し、なだめのささげものとしての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネの手紙4:9~10)
このイエス・キリストの十字架の死を通して示された神の愛に触れ、是非この神の愛に応答してください。神の愛にどのように応答(response)するかは、私たちの責任(responsibility)です。
 

Follow me!