聖書メッセージ57 |ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1807-75)と聖書ー人の目と神の目
ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1807-75)と聖書ー人の目と神の目
「アンデルセンの生涯」
アンデルセンは、1807年に、デンマークの第二の都市、オーデンセの貧しい貧民街に生まれます。父は靴職人、母は洗濯婦で、祖父は精神障害を患っていました。父はアンデルセンが11歳の時人生に疲れ、精神的に異常をきたし、死んでしまいます。極貧の中でも、母親は信仰深く、アンデルセンに神さまの話をしていました。アンデルセンは、1823年に、母親のことを回想しつつ、次のような詩を書いています。
「多くの眠れぬ夜のなか」
あなたの祈りはひびき
あなたの熱い涙は
私のために流されました
あなたが息子のために
熱心に主に祈って下さったため
善き主はその敬虔な祈りを
きかれたのです!」
アンデルセンは1819年にコペンハーゲンに来て、1828年にコペンハーゲン大学に最優秀の成績で合格します。そして24歳の時に作家になることを決意します。彼の作家としての成功は、1835年に『即興詩人』を書いた時で、各国語に翻訳され、ベストセラーになります。日本では、森鴎外が1892年『即興詩人』をドイツ語版から重訳しています。その後アンデルセンは、童話に挑戦して、「人形姫」、「マッチ売りの少女』、「みにくいアヒルの子」などの名作を次々に生み出します。アンデルセンの童話には「マッチ売りの少女」や、「醜いアヒルの子」 のように、人目には貧しく、みすぼらしく見える人物や動物が、神の目からすれば尊く、愛すべきかけがいのない存在として描かれています。
アンデルセンは生涯独身で過ごし、1875年70歳で天に召されました。彼の葬儀はなんと国葬で行われ、デンマーク中の人々が彼の死を痛み悲しんだと言われています。アンデルセンの墓の墓碑銘には、以下のような言葉が刻まれています。たとえ肉体は滅んでも、永遠のいのちを与えられて、天国で生きているという意味です。
「神おのが姿に像(かたちど)り給いし人の霊は
朽ちることなく、消ゆることなし
地上のいのちは、永生の種子
肉はほろぶれども、霊は死なず」
以上のアンデルセンの生涯を覚えつつ、彼の代表的な作品を、時代順に、「皇帝の新しい着物」、「マッチ売りの少女」、「醜いアヒルの子」、「赤い靴」という四つの童話に絞って、人の目と神の目の比較という視点から考えてみたいと思います。
「皇帝の新しい着物」(1837 年、32歳)
人間は様々な衣装を着て、自分を飾り、他人に自分を良く見せようとします。その衣装を脱ぎ捨ててみれば、赤裸々な真の姿が露わになります。「皇帝の新しい着物」は、そのような童話です。皇帝は、新しい着物を見せびらかし、人々の賞賛を得ることが大好きです。ある時、機織り人と名乗る二人のいかさま師がやってきて、皇帝に、想像も及ばないほど美しい着物を作ることが出来るといって、多額のお金をもらいます。その時にいかさま師は、着物には不思議な性質があり、「自分の地位にふさわしくない者はそれが見えない」と言います。皇帝に信頼されている大臣が織物を見にきますが、全く見えないのに、「おお、みごと!みごと!まったく、えもいわれぬものじゃ!」と言います。皇帝も見に来て何も見えませんが、やはり「なかなか見事なものじゃのう!、大いに気に入ったぞよ!」と豪語します。自分が皇帝にふさわしくないと思われないためです。人が物事を見る目は虚栄によって曇らされ、真実の姿を見ようとしないのです。
皇帝が行列を従えて行進するときも、往来の人々は「これは、これは!皇帝のこんどのお召しものは、なんと珍しいものでしょう。——ほんとうによくお似合いですこと」とおべっかをいいます。誰も自分が馬鹿と思われたくないので、真実が言えないのです。皇帝も大臣も取り巻き連中も、そして民衆も真実が言えず、虚栄と虚偽で支配されています。その時に、ひとりの小さなこどもが「なんにも来てやしないじゃないの」と叫ぶのです。その叫びによって、皇帝は裸であるという事実が広まっていきます。
この童話は、私たちに大事な事を教えています。多くの人は虚栄や地位、面子に支配されているので、本当のものを見ることができません。真実を見抜いたのは、天真爛漫な、小さなこどもでした。聖書の中でイエスは、一人のこどもを呼び寄せ、「誰でもこの子供のように自分を低くする人が、天の 御国で一番偉いのです」(マタイ18:4)と語られました。アンデルセンの脳裏にあったのは、このイエスの言葉ではないでしょうか。
「マッチ売りの少女」(1845年、40歳)
大晦日の晩、雪が降る寒い冬に、ひとりのみすぼらしい少女が、帽子もかぶらず裸足でマッチを売っていますが、誰も買ってくれません。少女は寒さで死にそうなので、マッチをすって、指先を暖めようとします。後に彼女が死んでうずくまっている姿が発見されました。凍え死んだのです。悲劇です!しかし少女は死んだ時に、微笑みさえ浮かべていました。なぜでしょうか?
実は少女は、マッチをすった時に、自分を世の中でたった一人可愛がってくれたおばあさんが幸福そうに、光り輝きながら死んでいく姿を見、「私を連れて行ってちょうだい!」と叫びます。そうすると、おばあさんは、小さい少女を腕に抱き上げて、光と喜びに包まれて、高く高く昇っていきました。アンデルセンは、「二人は、神のもとに召されたのです」と記しています。私は、このおばあさんの姿に、極貧の中でも神様を愛して天国に召されていったアンデルセンのお母さんの姿を認めるのです。そしてマッチ売りの少女は、アンデルセン自身ではないでしょうか。アンデルセンの墓誌銘「肉は滅ぶれども、霊は死なず」とあるように、イエス様を信じる人は、天国に導かれ、永遠に神の愛に包まれるのです。そこにアンデルセンの希望がありました。人々は、極貧の中でマッチを売っていた少女を冷たい視線でみていたかもしれません。しかし神は、少女をこよなく愛し、ご自分のもとに導かれたのです。
「みにくいアヒルの子」(1843年)
あひるのお母さんが、卵を産み、雛が現れますが、最後に卵からかえった雛が、灰色の醜いアヒルの子です。この子は、同じお母さんから生まれたあひるの子からもいじめられ,家を逃げ出しますが、どこに行っても嫌われ、除け者にされます。野鴨、二羽のガン、猫とニワトリからもいじめられて、冬の氷の中に凍りついて死にそうになりますが、ひとりの百姓に助けられます。そして醜いアヒルの子は、三羽の美しい白鳥を見て、白鳥に殺されるのを覚悟で、近づいていきます。その時に醜いアヒルの子は、水のおもてに映った自分の姿を見ますが、なんとそれは白鳥の姿でした。それは、「あのぶかっこうな灰色の、みんなに嫌がられた、みにくいアヒルの子ではなくて、一羽の立派な白鳥でした」。そしてこの童話は、白鳥が喜びの声をあげて、「僕が、みにくいあひるの子だった時は、このような多くの幸福は夢にも思わなかった!」という言葉で終わっています。
私たちは、この童話をどのように解釈したらいいのでしょうか。白鳥の子はひなの時には灰色なので、大きくなって成長して真っ白になっただけだと考えることもできるかもしれません。しかし聖書的視点から考えると、神のまえに醜く、誰からも相手にされなかった罪人が、イエス様の血によって清められ、罪が覆われて、白鳥のようにされたことを示しているのではないでしょうか。
聖書は、「たとえ、あなた方の罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ書1:18)と約束しています。人が見る目と神が見る目は異なるのです。
「赤い靴」(1845年、40歳)
「赤い靴」は、教会、 牧師、洗礼、賛美歌、聖餐式、天使といったキリスト教的な言葉で満ちています。しかしこの童話は実は「悔い改め」の童話なのです。そしてそこにはアンデルセン自身の放蕩生活の悔い改めが示されています。
お母さんをなくして孤児となった貧しい少女カーレンは、お年寄りの奥様に引き取られ、赤い靴を買ってもらいます。カーレンは堅信礼( 成人になった時に自分の信仰を言い表す儀式)という大事な式に赤い靴を履いて出席し、神様のことは考えずに、赤い靴のことばかり考えていました。聖餐式(イエス・キリストが人間の救いのために、十字架上で裂いた肉体、流した血を記念し、肉体を象徴するパン、血を象徴するぶどう酒に与る儀式)にも、黒い靴をはいていくように言われても、赤い靴を履いていくのです。賛美歌を歌う時も、祈る時も、赤い靴のことばかりを考えています。きわめつけは、養母が病気で寝つき、死期が近ずいていて、看病しなければならなかったのに、赤い靴を履いて大舞踏会に行き、踊り始めるのです。そして自分が踊りをやめようと思っても、やめることはできません。自分の意思にかかわらず、踊り続けて、舞踏会を出、町の門を出、森の中に入り、畑を超え、草原を超え、最後に墓地にやってきます。その時に、長い白い衣を来て大きな剣を持っている天使がカーレンに「おまえはいつまでも、踊り続けるのだ! その赤い靴を履いて踊るのだ!おまえが青ざめて、冷たくなるまで! 」と冷たく宣告します。実は赤い靴が象徴する人間の欲望、エゴイズムは止まることなくはエスカレートして、人間はその奴隷となり、死ぬまで続くのです。そしてしの結末は神の裁きです。
カーレンは恐ろしくなり、自分の罪を深く悔い改め、涙に濡れた顔を上げて、「おお、神様! どうぞわたしをお救いくださいませ!」と祈ります。
その時に、白い衣を着た天使が今度は、剣ではなく、バラの花をいっぱいつけた美しいみどりの枝でカーレンを迎え、教会に連れてゆきます。教会では、「カーレンや!よく来ましたね!」と声をかけられ、カーレンは「神様の御恵みでございます」とへりくだって答えるのです。カーレンの心は、神様に帰って、平和と喜びに満たされるようになりました。
カーレンは、神様に背を向けて、自分の赤い靴に心を奪われていました。そのまま進んでいけば、罪が罪を生み出し、エスカレートし、神の審判が待っているだけでした。しかし、カーレンはその前で悔い改め、罪を告白し、救われるのです。
私たちの赤い靴、私たちの心を捕らえて離さないものとは一体何でしょうか。私たちもカーレン のように自分の赤い靴で踊り蹴ているのではないでしょうか。カーレンのように、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて、罪の赦しと喜びが与えられれば幸いです。
「ダビデの悔い改め」
旧約聖書に登場するイスラエルの統一王国の王様であるダビデは人妻であるバテシバに対して姦淫の罪を犯し、さらにそのことを隠蔽するために、バテシバの夫で軍人であったウリヤを戦いの前線に送り、死なせてしまいます。直接手を下した訳ではありませんが、間接的な殺人です。神はダビデの心をご存知で、その責任を問うておられます。一年間ダビデは、この姦淫と殺人犯の罪を覆い隠していましたが、罪責感で生ける屍のようになっていました。しかし一年後、罪を告白して、罪が赦された時に、平安と喜びに満たされるのです。
ダビデは、この経験を、詩篇32篇で、次のように言っています。
「幸いなことよ その背きを赦され、罪をおおわれた人は—–
私が黙っていたとき、私の骨は疲れ切り、
私は一日中うめきました。
昼も夜も、御手が私の上に重くのしかかり、
骨髄さえ、夏の日照りで乾ききったからです。
私は自分の罪をあなたに知らせ、
自分の咎を隠しませんでした。
私は言いました。
「私の背きの罪を種に告白しよう。」と。
すると、あなたは私の罪の咎めを
赦して(くださいました。」(詩篇32:1、1-5)
「アンデルセンが教えるもの」
お母さんによって、真実な信仰を教えられたアンデルセンの心温まる童話を通して、私たちは人間的にいかに貧しく、弱く、醜くかったとしても、神の目は人の目とは異なり、わたしたち一人一人を尊いものとみなしておられることを知ることができます。他面、人がどんなに虚栄を張り、自分を偉そうに見せ、自分の利己的な欲望を追求していても、神は真実の人間の姿を知っておられ、悔い改めを求めておられることを学ぶことができます。私たちは、アンデルセンの童話を通して、貧しく、虚栄に満ち、醜い世界の只中にも、神の恵みが豊かに注がれていることを知ることができます。それは、神がひとり子イエス・キリストを私たちの罪のために十字架につけるほどまでに、私たち一人ひとりを愛しておられることによって明らかです。
参考文献
1 『アンデルセン童話集1』(岩波文庫、2020年)に「皇帝の新しい着物」が、『アンデルセン童話集2』(岩波文庫2018年)に、「みにくいアヒルの子」 、「赤いくつ」、「マッチ売りの少女」が収載されている。
2 『アンデルセン・シンフォニー』(いのちのことば社、1990年)