聖書メッセージ56|星野富弘(1946〜 )と聖書ーいのちよりも大事なもの

星野富弘(1946〜 )と聖書ーいのちよりも大事なもの

「いのちよりも大事なもの」

あなたにとって一番大事なものとは何でしょうか? ある人は仕事と言い、またある人は家族と言い、更に別の人はお金と言います。しかし一番多いのは、いのちではないでしょうか。死んでしまったら終わりだ、生きていさえすれば、きっと良いことがあるとはよく言われる言葉です。たしかに、そこに真理の一端が示されています。
他方、自分の生きることだけを人生の目標にしてしまうと、自分を超えた価値や目標のために生きる生きがいやダイナミズムが忘れ去られてしまいます。私たちは、ただ生きるだけではなく、日々の日常生活の中で、何を最大の価値、何を生きがいとして生きているかが問われています。いわば生きる長さではなく、生きる質が問題なのです。
星野富弘さんの詩画集『花の詩画集 鈴の鳴る道』(1986年)や『かぎりなき、やさしい花々』(1986年)などには、富弘さんの多くの詩画が収載され、多くの人々の共感を生み出し、公立学校の教科書にも採用されています。その中の一つの詩に、「いのちよりも大切なもの」があります。紹介しましょう。


「いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった。
いのちよりも大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった。」

この詩が発表され、共感を持って受け入れられてから、星野さんに「いのちよりも大事なものとは一体何ですか」という質問が数多く寄せられたということです。というのもこの詩には答えが示されていないからです。それでは、星野さんは、「いのちよりも大切なもの」をどこに見出したのでしょうか。星野富弘『愛は深き淵より』(立風書房、1990年)より、紹介します。

「星野富弘さんの事故」

星野富弘さんは、1946年に群馬県の現在のみどり市に生まれ、群馬大学を卒業して、中学の体育の教師になります。しかし1970年6月に器械体操の跳び箱で宙返りした時に、首の骨を折る大事故をし、頸髄損傷で、肩から下が麻痺し、用便も食事もできない状態になりました。生きる意味を見失い、何度も自殺を考えたということです。彼は、「舌を噛み切ったら死ぬかもしれないと考えたりした。食事をしないで餓死しようともした。が、はらがへって死にそうだった。死にそうになると生きたいと思った。母に首をしめてもらおうと思ったが、母を殺人犯にさせるわけにはいかなかった。」と当時のことを述懐しています。
こうした絶望的な状態にあった星野さんが、キリストに導かれるようになります。星野さんはそのために、自分の弱さと醜さを学ぶことが必要でした。

「自分の弱さを徹底して知る」

人生に絶望していた時に、大学の友人でクリスチャンの米谷さんが病院に星野さんを見舞いに聖書を持ってきました。しかし、星野さんはその聖書を読まないで、段ボール箱に入れて放置していたそうです。どうしてでしょうか?彼が、聖書を開くことに抵抗感を感じたのは、「あいつは、苦しくて、とうとうキリスト教という神様まですがりついたのか」と言われることを恐れていたからです。神様を信じるのは弱いからであって、もっと自分は強くならなければという思いがあったのです。実際、星野さんのそれまでの歩みは、自分の身体を鍛えて、強くなるという意思に貫かれていました。
しかし、気管切開して口も開けなくなった時に、自分の弱さを痛切に感じざるを得ませんでした。自分の弱さを知らなければ、人は神 に白旗を上げようとはしません。彼は、人工呼吸器に繋がれて、天井を見て生活する日が続くなかで、「私が強くなろうと思ってやった色々なことは、その時私を強くしてくれていたのではなく、弱さを、いつだって自分の弱さを思い知らしていたのではなかったのか。私はその弱さを自分で認めることが恐くて、無理に強くなったと自分にごまかしていいきかしてきたのではなかったか」と自問自答し、それは、「強さという衣を着たに過ぎない私の弱さそのものではなかったのか」と述べています。そして彼は、「もしかしたら、私はほんとうの自分の姿にもどったのではないだろうか」と述べています。これは大事な気づきです。人は自分の弱さやちっぽけさを知る時に、自分を超えた神の力と愛に眼が開かれていきます。人は自分で生きているのではなく、神によって生かされていることを知るようになります。
それでは、キリストに導かれるために必要なもう一つのこととは何でしょうか?

「自分の醜さを知る」

星野さんは病院で骨折をして入院しているクリスチャン女性から『塩狩峠』、『道ありき』、『光あるうちに』を読むように紹介されて、私たちは、「生きているのではなく、生かされているのです」という三浦綾子さんの言葉に心を動かされるようになります。この時から彼は、米谷さんが持ってきた聖書を渇きを持って読み始めるようになります。
と同時に、彼は、病院でのある出来事を通して、自分の醜さに目が開かれます。それは、スキー大会で転倒し、星野さんと同様に、四肢が全く麻痺してしまった中学生のター坊が、腕も足も動くようになり、自分で排泄をし、食事が出来るようになったことでした。それまで、星野さんは、自分と同じ不自由な状態にあったター坊を励ましていましたが、この時は、ター坊の回復を喜べず、強い嫉妬を抱いたのです。後に星野さんは、この時の経験を次のように詩で表現しています。

「体のどこかが人の不幸を笑っている。
ひとのしあわせがにがにがしく
『あいつもおれみたいに動けなくなればいい』と思ったりする。
体の不自由から生じたひがみだろうか。
心の隅にあった醜いものが、
しだいにふくらんできたような気がする。
自分が正しくもないのに
人を許せない苦しみは
手足の動かない苦しみを
はるかに上回ってしまった。」

「イエス・キリストを信じる」

星野さんは、本当の自分の姿に向き合うようになり、心の底に鉛のように重く溜まっている孤独や不安、罪責感に恐れおののくようになります。その時に彼が、聖書を開き、慰めを与えられたのが、イエスの招きの言葉でした。
「 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
彼は、この時の経験を後に次のように証しています。
「思い切って、イエス様の名を呼び、聖書を開いてみました。そしたら長い間苦しみ
ながら探していた私に語りかける言葉に会うことができました。上を向いて寝ている私の目に映るものは、天井の70枚のベニヤ板だけではなくなりました。その灰色のベニヤ板のつぎ目さえ、私たちのために血を流された十字架に思えます。楽しい時に感謝し、心の沈んでいる時、名を呼べる方が、今までになかった喜びです。」
星野さんは、十字架上で「父よ彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」とご自身を十字架につける者たちのためにとりなしの祈りをされたイエス・キリストのことばを、自分のために語られた言葉として受け入れ、生涯イエスの招きに従っていくことを決意します。この時こそ、星野さんがいのちよりも大切なものを見出した瞬間でした。
そして星野さんは、1974年12月22日、事故が起こった4年半後に、自分の救いのために祈り、訪問してくれたクリスチャンたちの前で信仰告白をし、洗礼を受けます。

「新たな使命」

星野さんの教師生活はわずか2ヶ月でした。しかし彼は、9年間の入院生活の中で、キリストにあって、新たな生きる意味を見出し、新たな使命を与えられました。それは、口に筆を加え、絵や詩を書き、キリストによって生かされている喜びを多くの苦しんでいる人々に伝えることでした。確かに星野さんの詩画には、八木重吉や水野源三の詩のようにキリストの愛や救いが前面に出ているわけではありません。「いのちよりも大事なもの」の詩に答えがあるわけではありません。また「人間にとってどうしても必要なものはただ一つ」と書きながら、それが一体何であるかが書かれていません。読者は、「いのちより大事なものはなにか」、「どうしても必要なものはなにか」を自分で真剣に考えるように導かれるのです。星野さんにとって、「いのちよりも大事なもの」、「どうしても必要なもの」は、疑いの余地がありませんでした。それは、星野さんを、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」と招かれたイエス・キリストです。彼の詩画集は、表面には出てきませんが、イエス・キリストの愛の精神で満ちています。

「パウロの告白」

最後に使徒パウロの言葉を紹介します。彼は信仰を持つ以前は、クリスチャンを迫害していました。彼は後に自分のことを「罪人の頭」と言っています。彼は非常に強い罪責感を抱いていました。それだけ、キリストの十字架の死と復活によって、自分の罪が赦されていることを知り、心からキリストに感謝します。イエス・キリストの愛を知ったパウロは、キリストのために自分のいのち捧げる人生を選び取ります。そこには、いのちに執着して、できるだけ長く生きたいという思いはありませんでした。パウロは自分の切なる願いについて、「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によってキリストが崇められることです。わたしにとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ 1:20〜21)と告白しています。パウロにとっていのちよりも大事なものは、イエス・キリストでした。彼は、キリストのためにいつでも死ぬ用意ができていました。

参考文献

星野富弘『愛、深き淵より』(立風書房、1990年)
星野富弘『いのちより大切なもの』(フォレストブックス、2012年)

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