聖書メッセージ20「ドストエフスキーと聖書」
第20回「ドストエフスキーと聖書」
ドフトエフスキー(1821-1881)は、世界的な文豪で日本でも彼の小説はよく読まれています。その中でも、『罪と罰』(1865)、『白痴』(1867)、『悪霊』(1870)、『カラマーゾフの兄弟』(1879)は、特に親しまれている小説です。彼は、1849年、反政府活動の嫌疑で逮捕され、処刑を宣告されますが、まさに死刑が執行される直前に、皇帝から恩赦を与えられ、命びろいした経験があります。彼はこの経験をとおして、神の存在と生きる目的を真剣に考えるようになります。
それから彼は、シベリア行きを命ぜられますが、この時彼は、ある女性から聖書を渡され、聖書をむさぼり読むようになります。彼は、自分のことを「不信と懐疑の子」と言っていますが、聖書を読み進むにつれて、イエス.キリストに惹かれるようになります。彼はシベリアのオムスクからある夫人に当てた手紙の中で「もし誰かが自分にキリストは真理の埒外に立っていることを示し、またもし真理が、本当にキリストの他にあるならば、僕は真理のところに留まるよりも、キリストの所に留まる方がよい」とさえ書き送っているのです。
それでは、ドストエフスキーはなぜそれほどまでに、イエス、キリストに深く心をとらえられたのでしょうか。これは、私の意見ですが、ドフトエフスキーの名著『カラーマゾの兄弟』の冒頭の聖書の言葉、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのまです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」にその秘訣があるように思われます。この言葉は、イエス、キリストが十字架にかかり、人間の罪の贖いをする事を自ら預言した言葉です。つまり、イエス.キリストの死によって、多くの人が罪を赦され、永遠の命が与えられる道が開かれることを意味しています。
『カラマーゾフの兄弟』には、敬虔なキリスト信者であるアリョーシャが無神論者である兄のイワンに語るシーンがあります。アリョーシャもイワンもある意味においてドフトエフスキーの分身ですが、彼はアリョーシャに不信や懐疑を克服する重要な役割を与えているのです。彼の次の言葉に福音のメッセージの全貌が示されています。「兄さんは今赦すと言う権利を持ったものが、この世の中にいるだろうかと言いましたね?
ところが、それはいるんですよ。その人は、すべてのことに対して、すべてのことを赦すことができるのです。なぜと言って、その人はすべての者に代わって、自分で自分の無辜の血を流したからです。」
大津集会では、聖書から救い主イエス、キリストについて学んでいます。お気軽に教会のドアをノックしてください。大歓迎です!!