聖書メッセージ18「むなしさからの解放」

第18回「むなしさからの解放」

 私たちは、時折、心の中にポッカリ穴が開いたようなむなしさを感じることがあります。
それは、孤独の時だけではなく、大勢の友達と一緒にいるときもそうですし、失敗した時だけではなく、成功して有頂天になっている時もそうです。「一体、それがどういう意味があるのか?」と。人間の中にある虚無感を最も鮮明に伝えているのが、旧約聖書にある「伝道者の書」です。著者のイスラエルの王ソロモンは、人間が経験しうる限りの快楽を経験した人です。彼は、王様として絶大な権力を行使しましたし、地中海貿易で事業を拡張し、財産と富を得ました。また豪華な邸宅を建て、たくさんのそばめをはべらせました。また彼は並外れたすぐれた知恵をもっており、シバの女王のように、諸外国から彼の知恵を聞きに訪ねてくる要人も多かったのです。そのようなソロモンの生き様をうらやみ、自分もソロモンのようになりたいという人も多くおられるかもしれません。しかし彼自身は、自分の生涯に対して “見よ、すべてが空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。“(伝道者の書、2:11)と結論づけているのです。そして彼は、快楽を追求する自分の失敗した人生の後を後の世代の人々が歩まないように、とても重要なメッセージを私たちに残しています。それは、“あなたの若い日に創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」という年月が近づく前に”(伝道者の書12:1)という言葉です。

フランスの哲学者パスカル(1623-1662)は、「人間には、神のかたちをした空洞がある。」と述べています。その空洞は、神によってしかうめられないものです。それを、事業や異性や、財産やmy-homeで埋めようとしても、うめることができないばかりか、時間が経過すれば、以前よりも深いむなしさを感じるものなのです。

有島武郎(1878-1923)という日本の文豪をご存じだと思います。彼は、内村鑑三と同じ札幌農学校に通い、1901年にキリスト教の洗礼を受け、内村鑑三の弟子となりました。しかしその後しばらくして有島は信仰を捨て、『惜しみなく愛は奪う』(1917)、『カインの末裔』(1918)などの小説を書き、名声を博するようになります。しかし彼は、1923年6月波多野秋子という女性と心中するのです。この心中事件に関して、世論は有島の死に同情的でした。しかしかっての信仰の師であり、有島が創造者である神に帰るように熱烈に祈っていた内村は、有島の死に哀悼の意を表しながらも、信仰の真理に立つものとして、世間の誤解や批判を受けることを恐れず、彼の決断に対してはっきりと批判しています。

有島君には、大きな苦悶があった。この苦悶があったればこそ、彼は自殺したのである。有島君の棄教の結果として、彼の心中深き所に大いなる空虚ができた。彼は、この空虚を満たすべく苦心した。これが彼の苦悶の存せし所、彼の奮闘努力はここにあったと思う。併しながら有島君いかに偉大だといえども、自分の力でこの空虚は満たしえなかった。それどころか、みたそうと努むれば努る程、この空虚が広くなった。彼は種々の手段を試みた。著作を試みた。共産主義を試みた。そして多くの人、特に多くの青年男女の称賛を得て、幾分なりともこの空虚を満たしえたと思うたであろう。しかしながら、彼は人の称賛ぐらいで満足しえられる人ではなかった。彼は社会に名を掲げて、ますます孤独寂寥の人となった。彼は終に人生を憎むに至った。神に降参するの砕けたる心はなかった。故に彼は神に戦いを挑んだ。死をもって彼の絶対的独立を維持せんと欲した。自殺は、有島君が考えてきたことであろう。ただし其の機会がなかったのである。

そしてその機会がついに到来した。一人の若き婦人が彼に彼女の愛を捧げた。著作においても、社会事業においても、空虚な心を満たすことのできなかった有島君は、この婦人の愛に偽り無き光を求めた。これは背教以来、初めて彼に臨んだ光であった。まことに小なる光であったが、長い間暗黒にさまよっていた彼にとっては、最も歓迎すべき光であった。しかして婦人は夫有る身であった。此の光は失うことはできない、さればとてこれをエンジョイすることはできない、故に二人共自ら死に赴いたのである。正直なる有島君としてはなしそうなことである。しかし、彼は大いに誤ったのである。——『人は自分のために生きずまた死せず。』と有島君の聖書に書いてある。いのちは自分一人のものであると思うは大なる間違いである。——背教は決して小事ではない。神を馬鹿にすれば神に馬鹿にされる。」(内村鑑三『万朝報』、1923.7.21)

聖書には、旧約聖書のエレミヤ書の中に、「私の民は二つの悪を行った。いのちの泉である私(神様)を捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない壊れた水溜めを」と記されてあります。内村鑑三によれば、まさに有島武郎の生涯は、創造者でいのちの源である神から離れ、多くの壊れた水溜めを堀った生涯だったのです。

聖書は、いのちの源である神に帰り、むなしさから解放され、新しい命と希望に生きる秘訣について語っています。一緒に聖書からその秘訣について考えてみませんか。大津キリスト集会は、皆様が勇気をもって教会の扉をノックされることを心から歓迎いたします。

文責 古賀敬太

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