聖書メッセージ08「仲介者イエス・キリスト」

「仲介者イエス・キリスト」

 2017年1月20日トランプ大統領の就任演説がありました。その時、祈祷した一人が有名な伝道師ビリー・グラハムの息子フランクリン・グラハムです。グラハムは、「神と人の間の仲裁者はキリスト・イエス」で、キリストなくして罪の赦しはないと祈りました。

現在、家族のコミュニケーションは危機に瀕しているといわれています。最も親しいと思われる家族の中にあっても、亀裂が走っています。夫と妻、父と子、そして兄弟間に心の壁があり、一方から他方にいく通路が閉ざされているのです。文豪夏目漱石は、「死ぬか、発狂するか、宗教に入るか、僕の前にはこの三つのものしかない」と吐露した『行人』の中で、夫である一郎と妻である直、また長男一郎と次男二郎の間にある心の壁をリアルに心理描写をしています。一郎が妻である直と二郎との関係を疑っているからです。そこには疑惑と不信が渦巻いています。一郎が二郎に「君の心と僕の心とは一体どこまで通じていて、どこから離れているだろう」と聞いた時、二郎は、「人から人へかけ渡す橋はない」(Keine Brǜcke fǜhrt von Mensch zu Mensch)とドイツのことわざを引用して答えています。二人の亀裂は大きいのです。これは漱石だけではありません。多くの人が悩んでいる問題ではないでしょうか。国と国との亀裂も拡大し、戦争になることもあります。1920年から7年間国際連盟事務局次長を務めた新渡戸稲造は、関係が悪化する日米関係を仲裁しようと、「我太平洋の架け橋とならん(I wish to become a bridge across the Pacific)」の抱負をもって単身アメリカに渡り、アメリカで客死しました。1933年です。新渡戸の命をかけた仲裁の試みは功を奏さず、1941年太平洋戦争が勃発しました。「国から国への架け橋は存在しない」ということでしょうか。

しかし、夫と妻の関係、兄と弟の関係、国と国の関係より、人生にとって重大な関係は、神と人との関係です。聖書によれば、創造者である神と人間との間には、罪という壁があり、交わりが立たれています。コミュニケーションが存在しないのです。聖書は、神と人との関係を次のように指摘しています。

「見よ。主(神)の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがた咎があなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1、-2)と記されています。

はたして、人から神へあるいは神から人への「架け橋」は存在するのでしょうか。この質問に対する答えはNoでありYesです。Noというのは、私たちから神に近づく道は存在しないからです。人がどんなに努力をし、修行し、愛の実践をして、自分の罪を清算しようとしても、聖なるの前では、罪の意識が深まるばかりです。「ああ、われ悩める人なるかな」と叫ばなければなりません。それは、パウロの経験であり、また宗教改革者M・ルターの経験でもありました。Yesというのは、神自身から「人に橋を架けて」下さり、私たちが神にたち帰り、神との交わりが回復する道が開かれたからです。

この「神と人との懸け橋」こそ、イエス・キリストです。この方は、全く罪がない神の御子であるにもかかわらず、私たちのすべての罪を負って十字架にかかり、身代わりとして聖なる神の裁きを受け、そして三日目に墓を打ち破ってよみがえられました。イエス・キリストが神と私たちの「架け橋」となってくださったのです。まさに2月の聖書のみことばにあるように、「神と人との仲裁者は唯一であり」、このお方こそ、イエス・キリストなのです。

イエスは言われました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれひとり、神のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書14:6)

大津集会は、人生の重荷を負っておられる方、神様を求めておられる方が、教会のドアをノックして下さることを心から歓迎いたします。是非、イエス・キリストにある豊かな人生を見出してください。

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