聖書メッセージ05「病者の祈り」

第5回「病者の祈り」

大津キリスト集会所の横に「べテル」というゲストハウスがあります。そこの壁に「病者の祈り」という詩が、貼り付けられています。「ベテル」に宿泊した人々は、その詩を読んで、感動されるのです。それは、ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一人の患者の詩で、多くの人々の心に希望と慰めを与え続けてきました。有名な詩ですので、知っておられる方も多いと思いますが、その詩の内容は以下の通りです。

“大事を成そうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で
最も豊かに祝福されたのだ”

この患者は、最初は、大きな仕事をなすための力、偉大なことを成し遂げるための健康、幸福になるための富、人々の称賛を得るための権力、人生を享受するための快楽を神に祈り求めましたが、与えられたものは、病弱と貧困でした。これは、一般の人々の価値観からすれば敗北者の人生であり、失意のうちに神を呪って死んでいったとしてもおかしくはない結末です。しかし、この病者は、最後に「わたしの心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた。私は、あらゆる人々の中で、最も豊かに祝福された」と神に感謝するのです。まさしく人生の大逆転が生じました。この転換を可能にしたものは一体何だったのでしょうか。すべてを失いながら、なおも自分は最も祝福されたものであるといいうる秘訣は一体何でしょうか。この詩の中には、その理由は書かれていません。

しかし、一つだけ確実なことは、この病者が病気の苦しみの中で、自らの弱さと無力さを知り、神の前にひざまずいたことです。神は、高ぶるものを退け、へりくだるものに恵みを注がれる方です。私たちが、自らの無力と弱さを深く知り、神の前に白旗を挙げる時に、神との出会いを経験できるのです。+と+は反発しあいますが、+と-は、引きあいます。神は絶対的な+なので、私たちが絶対的な-になる時に、私たちは神との出会いを経験することができるのです。

この詩を読むと、「瞬きの詩人」と言われた水野源三さんのことが思い出されます。1946年水野源三さんは、赤痢にかかり、その後、高熱で、脳膜炎を発症して、半身不随、口もきけなく、動けなくなり、死にたいと思うようになりました。そんな時、牧師が残していった聖書をむさぼるように読み、イエス・キリストを救い主として信じるようになります。水野さんは、御自分の回心に触れて、「ただ植物のように生きる私でしたが、主イエス様の十字架に現された真の神様の愛と救いに触れ、喜びと希望を以て生きることができるようになりました。」と述懐しておられます。

美雪さんという姪の方が、水野源三さんに「病気をしていたことをどう思っている」と聞いた所、水野さんは即座に“感謝している”と答えたそうです。何が彼をそれほどまでに変えたのでしょうか。そのヒントは、以下の彼の詩の中にあります。彼は病床の中で、彼の罪のすべてを一身に引き受けて十字架で身代わりに死に、三日後によみがえられたキリストの愛に触れたのです。

“キリストのみあいに触れたその時に
キリストのみあいに触れたその時に
私の心は変わりました。
喜びと希望の朝の光がさしてきました。“

まさしく、水野さんこそ、あの病者の祈りの中にあるように、「私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ」と言いうる人ではないでしょうか。キリストは、この世にこびりついた、狭く、うつろいやすい価値観から私たちを解放し、天の高みまで導き、苦しみのただなかに希望を、暗闇の中に光を、憎しみの中に愛を注がれるお方なのです。

あなたもキリストを求めてみられませんか。大津キリスト集会は、重荷を負い、人生に疲れている人々、真理を求めている方々を心から歓迎いたします。

“すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(イエス・キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”(マタイ11・28)

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