聖書メッセージ01 「死に対する備え」

第1回「死に対する備え」

 日本人は死をタブー視します。たとえば病院には4号室はありません。また以前はターミナル駅やターミナル・ホテルという言葉が頻繁に使われていましたが、ターミナル・ケア(終末期医療)という言葉が使われ始めると、ターミナルという言葉は縁起が悪いというので、駅やホテルであまり使われなくなってしまいました。

フランスの科学者、哲学者パスカル

フランスの科学者であり哲学者でもあるパスカルは、自著『パンセ』の中で、死を考えようとしない人のことを「人間は、絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方に置いた後、安心して、絶壁の方へ走っているのである。」と述べています。何かさえぎるようなものを置き、死を直視しないのは、死が恐ろしく、すべての終わりであるかのように思うからです。
しかし、聖書の伝統のある西洋では、ラテン語で「メメント・モリ」つまり「死を忘れるな」という精神的伝統があります。メメント・モリの伝統には、死がすべての終わりではないという考えが根底にあるのです。聖書の中に、死の解決があるからこそ、死に向き合い、死に対する備えをすることができるのです。

死に対する備え「終活」

死に対する備えを最近では「終活」といいます。一般に日本人は、「終活」というと、遺書を書くとか、葬儀や遺骨を納める墓を準備することと考えます。 しかし、真の「終活」とは、死んだ後、一体人間はどうなるのかを知ろうとすることです。多くの人がこの問題を知ることなく、死んでいきます。
たしかに、私たち人間は、死の次に起こることを理性で理解することはできません。この問題に関して、神のことばである聖書は何といっているでしょうか?

聖書には、「一度死ぬことと、死後に裁きを受けることは定まっている」(へブル書9章27節)

と記されてあります。この聖句の前半の「一度死ぬこと」は誰でも受け入れます。しかし、後半の「死後に裁きを受けることは定まっている」は、ほとんどの人が受け入れようとしません。
以前日本銀行の総裁をしておられた速水優氏が新聞のコラムに、最近の政治家や経営者には「説明責任」(accountability)が求められているが、この「説明責任」の起源は、人間が自分の人生をどう送ったかを神に対して弁明しなければならないところから来ていると書いておられました。

神に会う備えをせよ

私たちは死んだ後、聖なる神の前に立ち、その審判を受けなければならないのです。ですから聖書は、「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス書4章12節)と警告しています。
私は仕事上、しばしば学生たちを連れて裁判傍聴に行きます。裁判での裁判官の判決はいつもぴんと張りつめたような緊張が走る瞬間です。それは、無罪判決が下されるか、有罪判決が下されるかのどちらかになるからです。裁かれるとは、判定が下されることを意味します。
同じように私たちも神の法廷で、被告として裁判官である神の前に出なければなりません。その時に私たちは神の前に罪がないと言えるでしょうか?
残念ながら、私たちは自分の力で自分の罪の清算をすることができません。パスポートがなければ外国に行けないと同様、罪の清算がなければ、天国に行けないのです。
今まで犯してきた罪がきちんと清算されていれば、私たちは無罪判決を受けるだけではなく、天国に入るパスポートを取得できますが、逆に罪が清算されていなければ、有罪判決を受け、永遠の滅びを宣告されるからです。このように天国は、誰でもが入れるというわけではありません。

罪を清算するには

それではどうしたら、私たちの罪は清算されるのでしょうか? 聖書はこの問題に対して悦ばしいニュースを伝えています。私たちは自分の力で自分の罪の清算をすることができません。しかし、私たちに代わって罪の清算をして下さった方がいるのです。その方こそ、イエス・キリストです。
イエス・キリストは、私たちの罪を負って十字架にかかり、身代わりとして神の裁きを一身に受けられ、三日目に墓を打ち破ってよみがえられたお方です。イエス・キリストは、十字架で「完了した」と叫ばれました。つまり罪の清算が完了したという意味です。

 神は、イエス・キリストの十字架の死によって、私たちを責めたてている罪という債務証書を無効にされたのです。「神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけされたのです、」(コロサイ書2章14節)

私たちがなすべき責任は、このイエス・キリストを私の救い主として、受け入れることだけです。イエス・キリストにどういう態度をとるかによって、神の判定が決まり、私たちの永遠が決定されるのです。

27歳のAさんはスキルス性の胃がんでした

私は、今年の5月26日に葬儀の司式をいたしました。亡くなられたAさんは、27歳でスキルス性の胃がんでした。約一年一ヶ月の厳しい闘病生活の後、イエス様を信じて天に召されていきました。クリスチャンであるお母さんは、娘のAさんがイエス様を信じて救われることを、親としての責任と強く考えておられました。また、娘さんと再会したいという強い願いを抱いておられました。そのお母さんの語りかけに、当初Aさんは、反発し、拒否感を示しておられましたが、いよいよ痛みと死への不安が強くなってきた時に、変化が現れてきました。

Aさんの祈り

Aさんが5月1日初めて神様に祈られたのです。それは、「イエスさん、こんにちは。私は信じられていませんが、毎日痛いので助けて下さい。よろしくお願いします。」というものでした。その後、イエスさん、イエスさんと何度も呼んで眠られたとのことです。また同日の夜の祈りは、「イエスさん、私はあなたを信じていませんが、あなたのされたすごいこと(十字架の救い)は感謝します。毎日毎日の痛みや病気の意味があるとしたら教えて下さい。私はもう頑張れないです。これから寝るので痛みがないようにしてください。」というものでした。
その後内面的な葛藤を経つつも、Aさんは5月15日、「偽物の神様は信じないけど、お母さんの信じている本物の神様であるイエスさまは信じたいと思っている」と告白されるまでになりました。

悔い改めの祈り

そして「今まで神様を知ろうとしなかったことを赦してください」と悔い改めの祈りをされ、「先に天国に行って待っています」と語られたそうです。私と家内が5月18日に病院を訪問した時に、Aさんは苦しそうでも、顔は平安に満ちていました。そして、「イエス様がAさんのために十字架にかかり、罪を赦し、永遠の命を与えてくださって感謝します」という私の祈りに、はっきりと聞こえる声で「アーメン(そうです)」と言われました。

5月22日のAさんの祈りは、「早くイエス様のそばに行きたいです。私を天国に迎え入れて下さい。どうか今日こそは私の手を握って天の御国にあげてください。この痛みから、この世から切り離して下さい、私はそうして下さるのを待っています」というものでした。

驚くべき変化

そして神様は、5月25日にこの祈りを聞いて下さり、Aさんは、「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」(ヨハネの黙示録21章4節)天の御国に移されたのです。召されるまでの10日間のAさんの変化は驚くべきものでした。死は、すべてのものの終りではありません。死は、死に対する強い恐れを産み出します。また愛する親しい者がなくなった時に、残された者に大きな心の悲しみやいやしがたい喪失感を生み出します。

死を超えた希望

しかし、イエス・キリストを信じるものにとっては、死は地上の生涯を終えて天国に至る通過点にすぎません。死を通して、もっとすばらしい世界が開かれているのです。

どうぞパスカルが警告したように、死の問題に目をつぶることなく、死の備えをし、死を超えた希望を持っていただきたいと思います。また死を超えた希望を持つことが、地上の生涯を勇敢に生き抜く秘訣でもあります。

死は勝利に飲まれた

聖書は、「死は勝利に飲まれた」、「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか、死よ、おまえのとげはどこにあるのか」(Ⅰコリント15章54節)と宣言しています。

*このメッセージは、『みちしるべ』(2015年8,9,10月号)に三回にわたって連載したものに若干の修正を加えたものです。文責 古賀 敬太

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