第9回 「聖書入門ーキーワードで読む」
第九回 贖い(λὐτρωσις(リュートローシス),άπολύτρωσις(アポリュトローシス)、Redemption)
「贖いのギリシャ語と本来的意味」
聖書で「贖(あがな)う」という場合には、代価を払って買い取る、ないし解放するという意味があります。奴隷解放が、イメージとしてわかりやすいと思います。奴隷を主人から、身代金を払って解放するという意味です。
もちろん私たちは奴隷ではなく、自由人です。自分の選択や決断によって行動することができます。しかし聖書は、人間がいかに弱く、本能や欲望によって駆り立てられる存在であるかを示しています。とくに日本では、女性の盗撮をはじめ性的な被害が多発し、止まるところをしりません。政治家、高級官僚、教育者、警察官、会社員、大学生の性的な犯罪が話題にならない日はないほどです。理性も道徳も、面子も、性的衝動をコントロールできない程度にエスカレートしています。このことを聖書は、罪の奴隷と言っています。そのような罪の奴隷である私たちが、イエス・キリストの十字架の犠牲という代価が支払われて、罪の奴隷から解放され、真に自由とされることを贖いと言言います。
ギリシャ語のλὐτρωσις(リュトロオーシス)が贖うという名詞で、3回用いられ、リュトローマイが贖いを意味する動詞で3回用いられています。英語では、redemptionです。またリュローシスが強い意味を持つと、άπολύτρωσις(アポリュトローシス)という言葉が用いられます。これは、新約聖書で10回用いられ、身代金の支払いによってなされる解放、奴隷の買い戻しを意味します。
例えば、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義とさ認められるからです。」(ローマ3;24)の贖いにはアポリュトローシスが用いられています。
またコロサイ書の1:14節には、「この御子にあって、私たちは贖い、すなわち罪のゆるしを得ているのです。」とありますが、この贖いが、アポリュトローシスです。また贖う(アポリュオー)の動詞は、新約聖書で69回使用されています。
「奴隷からの解放」
奴隷という言葉は現在の自由な社会においては、違和感があるかもしれません。しかし人間は罪の奴隷です。罪によって縛られた無力な存在です。聖書の救いは、罪の奴隷から、キリストの奴隷へと主権が転換することを言います。聖書には、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する神の御支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:14)とあります。
「旧約聖書における贖い」
旧約聖書も、出エジプトにおけるユダヤ人の解放を、「贖い」という言葉で表現しています。
「わたしは主である。私はあなた方をエジプト の苦役から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきによってあなた方を贖う。私はあなた方を取ってわたしの民とし、わたしはあなた方の神となる。」(出エジプト6:6〜9)
ここでも主権の転換、解放の意味内容が示されています。またイザヤ書において神はユダヤ人のバビロン捕囚からの解放を念頭において、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(イザヤ43:1)と語られています。
ここで新約聖書の贖いについて大事なポイントを4点見てみましょう。
【第一のポイントー 贖いと償いとは異なる】
第1のポイントは、日本の日常語では、贖いという言葉は使わないので、償いと間違えてしまう方も少なからずおられます。償いとは罪を赦してもらうために何かをすることですが、贖いは、一方的な神の恵みにより、罪の奴隷から解放されることです。自分の力でどんなに頑張っても罪の支配から自分で自分を解放することはできません。
【第二のポイントー贖いは罪の赦しを含む】
第二のポイントは、贖いは、救いの文脈で用いられる場合、罪からの解放と同時に、罪の赦しを含んでいるということです。「この御子にあって私たちは贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」(コロサイ1:14)とあります。
【第三のポイントーイエス・キリストの血という代価の必要性】
贖いの第三のポイントとして、罪の奴隷から解放されるためには、「身代金」、「代価」が支払われる必要があります。代価が支払われることなくして、罪の赦し、そして罪からの解放はありません。「あなた方は、代価を払って買い取られたのです。(1コリント6:20) とある通りです。そしてその代価とはイエス・キリストの血です。
「ご承知のように、あなた方が先祖から伝わったむなしい生き方から解放されたの
は、銀や 金のような朽ちるものにはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリ
ストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18〜19)
私たちの罪が赦され、罪から解放されるために支払われた代価は、全く罪のない神の子イエス・キリストです。神は、独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに私たち一人一人を愛してくださいました。いかに神が私たちを高価で尊いものとみなしておられるかの証明です。わたしたちは、自分にとって価値がないと思えるものには一銭もお金を使いたくありませんが、ものすごく価値あるものには、たとえ高額なお金を支払っても、また借金をしてでも購入するのではないでしょうか。同じように、神は独り子イエス・キリストを代価として支払うほどに、私たちを愛しておられます。
「第四のポイントー身体の贖い」
贖いの第四のポイントは、贖いが未来の意味において使用されている点です。聖書は、魂の救いという意味で「贖い」という言葉を使っていると同時に、将来イエス・キリストの再臨の時に、死者が復活し、朽ちない栄光の身体に変えられるという肉体的な意味でも「贖い」という言葉を用いています。パウロは、そのことをうめきつつ待ち望んでいました。
「そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめき
ながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち
望んでいます。」(ローマ書8:23)
主イエスが再び来られる時に、信者がよみがえり、罪のない栄光の身体に一瞬にして変えられることが、パウロだけではなく、すべてのクリスチャンの望みなのです。
「贖い」が代表的な事例ですが、聖書を読む時に、キーワードの意味を理解しておけば、聖書がもっと身近で、わかりやすいものとなります。是非救いの理解にとって最も大事な「贖い」の意味を理解してください。
第十回 義認(δικαιὀω,ディカイオオー、justifucation)
「義と認める」(δικαιὀω)という言葉は、新約聖書で39回使われ、特にローマ人への手紙で15回、ガラテヤ人への手紙で8 回用いられています。多くは、「義と認められる」、つまり義とされるという意味で受動態で用いられています。また義という名詞はδικαιοσύνη(ディカイオシュネー)で、91回使われています。それでは、この義認について、4つのポイントで考えてみましょう。まさに、この「義とされる」ことに目が開かれて、ルターの宗教改革が始まり、救いの真理が回復されたのです。「義とされる」ことは、「贖い」と同様、救いの中心的なキーワードです。
「第一のポイントー義認は法廷用語」
法廷では、検察官が被告の罪を追及し、弁護人が弁護し、最後に裁判官が判決を下します。関係者や傍聴人は、どのような判決が下されるか、緊張して待っています。その時に無罪であるという判決が、「義とされる」という意味です。つまり無罪宣告です。
私たちは、人生の総決算として、いつかは神の法廷に立ち、自分がしたことに対して説明責任(アカウンタビリティ)を果たさなければなりません。その時、無罪判決を受けるか、有罪判決を受けるかのどちらかです。本来、人間は罪人として有罪判決を受けて当然でした。ローマ人への手紙では、すべての人が罪の下にあり、「義人はいない、一人もいない」(ローマ3;10)、「全世界が神の裁きに服する」(ローマ3;19)と記されてあります。自分の力では自分の罪を清算できません。しかし神は、行いとは別の方法によって、罪人に無罪判決を下す道を開かれました。
「第二のポイントー義認は信仰によって」
つまり、イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架にかかり、血を流して、代わりに裁かれて下さいました。私たちは、ただイエス・キリストに免じて、イエスを信じる信仰によって義とされると聖書は語っています。つまり「行いによる義」ではなく、「信仰による義」です。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ書3:28)とある通りです。この信仰による義の発見こそ、ルターの宗教改革の出発点でした。
「第三のポイントー神の恵み」
有罪判決を受けて当然なものが無罪判決を受けて義とされ、罪赦されるわけですから、それは神の一方的な恵みです。聖書は、「ただ神に恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに価なしに義と認められます。」(ローマ3:24) と語っています。この「価なしに」のギリシャ語はδωρεὰν(ドーレアン)でただを意味します。つまりこちらが何をしなくても、イエス・キリストを信じ、受け入れるだけで、罪赦され、義とされるのです。これが恵み(カリス)の意味です。「ただほど怖いものはない」と反論する人もいますが、神の恵みを感謝して受け入れるためには、神の前におけるへりくだりが必要です。プライドの強い人、神の前に白旗を挙げようとしない人は、恵みを恵みとして受け入れようとしません。自分は神や人から恵まれる存在ではないと呟くのです。以前の私がそうでした。それは自分の罪の深さにきずいていないからです。クリスチャンを迫害していたパウロは、自分の罪の大きさにもかかわらず、恵みによって救われた喜びを以下のように告白しています。
「私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれまし
た。キ リスト・イエスは罪人を救うために世に来られたということばは真実であ
り、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1テ
モテへの手紙1:15)
「第四のポイントー義認と神の義の関係」
実はイエスの十字架は、信じる者が神の前に義とされる恵みであると同時に神の義、つまり神の正しさを示しています。神の前に義とされると同時に神の聖さや正しさが現わされなければなりません。まさにイエスの十字架において神の愛と神の正しさが同時に示されています。「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(ヨハネの福音書1:17)とある通りです。
つまりイエスの十字架の死は罪を裁く神の聖さや正義の現れであり、同時に信じる者を義と認めてくださる神の愛の現れです。
「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物とし
て、公 にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、
今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。こうして
神ご自身が義(ディカ イオシネース)であり、また、イエスを信じる者を義と御認め
になるためなのです。」(ローマ人への手紙3:25-26)
「第五のポイントー義の衣を着せられる」
第五のポイントは、イエスを信じる人々は、罪赦されるだけではなく、キリストの義の衣を着せていただき、完全なるものとして神の前に立つことができることです。これには、新約聖書におけるたとえとして、ぼろぼろの服を纏って帰ってきた放蕩息子に父親が、「一番良い着物を持ってきて着させ」、子として受け入れたことに示されている真理です。これが、義とされた人が神の前に持っている立場です。いわば乞食が王子にされた立場です。ただ王子とされた乞食が、王子とされても状態において乞食の時の習慣を継続し、王子としてふさわしくないこともありますが、王子としての立場は変わらないのです。