聖書メッセージ23「林文雄とハンセン病」
第23回「林文雄とハンセン病」
ハンセン病患者のために生きた人物に林文雄(1900~1947)という人がいます。彼は北大医学部卒で、多摩のハンセン病療養所の全生病院で働いた後に、1930年に国立ハンセン病療養所長島愛生園で医務課長として働き、1935年には鹿児島県の鹿屋市に設立された星塚敬愛園の園長となり、1944年に肺結核療養のため、大島青松園に移り、1947年に死去しています。林文雄は、『生きがいについて』(みすず書房)を書いた神谷美恵子と同じように、ハンセン病患者から生きる意味とその源について教えられた医師でした。
『林文雄の生涯―救癩使徒行伝』(新教出版社、1974年)によると彼がハンセン病患者の療養所の医師になることを決心したのは、第一に、最も人出の足りない所、第二に人の最も嫌うところ、第三に、最も苦しめる人のために働くことがふさわしいと考えたからでした。彼は自分の行いで一生懸命ハンセン病患者のために尽くそうとしたのです。その動機は純粋で、野心はありませんでした。しかしそこに自分の思いや行動に対する自信や傲慢がありました。彼は、自分の天職として、ハンセン病患者の療養所を選びましたが、次第に様々な困難に遭遇するうちに自分の心の中に空虚さを感じるようになります。使命感は強ければ強いほど、彼の落胆やむなしさも大きいものとなり、彼の心は打ちひしがれるようになります。
彼はこの時のことについて、「私は卒業後、東村山の癩病院に行って愉快に働きました。しかしなお私のこころには空虚がありました。—–癩病院に働き、彼らの友となり、兄弟となり、彼らの血とうみの中に生活しまたが、やはり、真の喜びは少なく、むなしさがありました。」と書いています。彼が、煩悶としていた時、彼はハンセン病患者を通して、真に生きるとは何かを教えられるようになります。
「全生病院に八木牧童という癩者がいました。やはり重病の病人です。しかし彼の顔は常に輝いていました。彼ののどは侵されていましたが、なお大いに立派な声を出しました。そして常に祈り、常に暗記して、讃美歌を歌いました。彼は先日なくなりましたが、皆に別れを告げ、葬式の聖歌を選び、『おお感謝すべきかな、私の胸にはキリストの十字架の血が流れている』と叫んで召されました。多くの癩菌が巣喰うて、むしばめるだけむしばんだ肉体、世の人の眼から見たら汚れた者、最も汚れた者である、その癩者が『私の胸には神の子の血が流れる』と叫んでニコヤカに主(神)のもとに帰ったのです。」
彼は、この患者の姿を見て深く心を刺され、「同じ恵みを与えたまえと祈りつつ」、聖書をむさぼり読む中で、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ書5章20節)の言葉に触れます。彼は自分を患者より一段上に置いていた自分の傲慢の罪をしめされ、ハンセン病患者の生きざまを通して、イエス・キリストの十字架の意味を心から理解するようになります。彼はこの時の回心について、以下のように述べています。
「私は罪人のかしらでした。今まで罪人は、人のことだと思っていました。しかし、それは私でした。—–キリストは、私のために血を流されました、キリストの十字架は、罪人林文雄のためなのです。私はマルチン・ルターのように、『キリストの十字架は、私のため、昨日立てられたように』感じました。そして私に対する罪の赦しがはっきりと胸に感じられたのです。——これほどまでの神の愛、これが聖書の根本です。これは古くして新しい福音です。ローマ書は最も明らかにそれを示してくれています。小生30歳にして初めてこの真理にぶつかり、本当の天地のでんぐり返りを味わい、今日に及んでいます」
この回心があった時以来、文雄の生涯は一変しました。ハンセン病患者への奉仕も、善い行いの実践ではなく、キリストの十字架の恵みに対するあふれるばかりに感謝の現れとなったのです。 「その後、いかなる時も、苦しみの時、悩みの時、病者に裏切られる時、常に仰ぐのは主の十字架です。私の仕事はもう仕事ではなくなりました。溢るる感謝となったのです。—-皆さん、目をあげて高きを見てください。そして十字架を仰いで下さい。そこに人生のみならず、宇宙を解決するカギがあるのです。」
聖書の根本は、善い行いをすることにあるのではありません。逆に自分の罪を示され、自分の罪のために身代わりとして死んでくださったキリストの十字架を仰ぐことにあります。そしてキリストの愛によって押し出されて、神と人を愛するように変えられていくのです。
大津集会では、毎日曜日に聖書から生きる意味について学んでいます。是非教会のドアをノックして、聖書に触れて下さるよう願っています。
文責 古賀 敬太