聖書メッセージ24「八木重吉と聖書」

第24回「八木重吉と聖書」

 八木重吉(1898-1927)は、「貧しき信徒」や「神を呼ぼう」を書いたクリスチャン詩人です。彼は、宮沢賢治(1896-1933)と同時代人で、宮沢賢治は八木重吉より6年後の1933年に死去しています。

彼は、東京高等師範学校在学中にイエス・キリストを信じますが、1922年に結婚した三年後の1925年に肺結核をわずらい、1927年に30歳で亡くなります。彼の純粋なキリスト信仰を知るために、彼の書簡や詩から彼の言葉を引用してみたいと思います。彼の詩は、多くの人々の魂をうるおし、疲れた人に生きる勇気と希望を与え続けてきました。

まず彼は聖書についてどのように考えていたのでしょうか。彼は、親戚筋にあたる八木亀輔あての手紙において、聖書について「私にとっては、今まで読んだ何千何百の書物よりも、このイエスという人の一言が重いのです。世界中の人が嘘だといっても私には嘘だと思えないのです。」と書き記しています。また1926年に書いた「聖書感想文」において、彼は聖書とイエス・キリストについて以下のように書いています。

「私は本では、詩集を読むことが一番好きです。しかしそれすら無くてもすませます。しかしもし私から聖書をとられてしまったら、私は全く、頼りない気持ちになってしまいます。イエスという人は時々、事情に無理な到底人間にできぬようなことを人に要求しているように見えます。それについて私は長い間疑いがはれなかった。しかしだんだんわかってくるようです。つまりイエスは、右の手に光を持ち、左手に救いをもっておられたと思います。右の手で私をすっかり照らして、私に自分の底をよく見させ、自分とはこんなものだということを知らせ、それから左手で救い取ってくださると思います。そして『あなたの信仰、あなたを救えり』という言葉が味わえるのだと信じます。」

八木重吉はキリストが右の手の光で私たちの心の奥深くを照らし、心の中の罪を明らかする一方、左の手で、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださるお方であると言っているのです。彼は、全く罪のないイエス・キリストが自分の罪を負って十字架にかけられ、罪の赦しの解決の道を与えて下さったと心から信じました。

以下は、「解決」という詩です。

「キリストが解決しておいてくれたのです。
ただ彼の中へ入ればいい
彼に連れられてゆけばいい
何の疑もなく
こんな者でも
たしかに救って下さると信ずれば
ただあり難し
生きる張り合いがしぜんとわいてくる
むつかしい路もありましょう。
しかしここに確かな私にもできる路がある。
救ってくださると信じ、私を投げ出します。」

また彼は、1925年に書いた「基督」という詩において次のように述べています。

「神はどこにいるのか、基督が知っている。
人間はどうして救われるのか。
全力をつくしても人間は救われない。
基督をいま生きていると信じることだ」

キリストは、私たちの罪を負って十字架で身代わりとして死なれ、そして墓を打ち破って三日目によみがえられて今生きておられる方です。キリストの復活こそ、キリスト信仰の秘訣です。 八木重吉は、苦しみの中から、生ける神を呼び求めました。そして彼は、すべての人が意識しているかしないかにかかわらず、赤ん坊のように神を求めていることを直観したのです。そこに彼の深い共感能力と洞察力が示されています。人々は悲鳴を上げているのです。八木重吉の最も有名な詩の一つが、「みんなも呼びな」という詩です。

「みんなも呼びな」

さて あかんぼは
なぜに、あん、あん、あん、あん なくんだろうか
ほんとにうるせいよ
あん、あん、あん、あん
あん、あん、あん、あん、
うるさかないよ、うるさかないよ
よんでるんだよ
かみさまをよんでいるんだよ
みんなもよびな
あんなにしつこくよびな」

今、日本の社会は、人間の罪の故に神に対して叫び声をあげています。SNSが発達し、それが悪用されて、殺人やレイプが繰り返されています。高齢化社会になり、老々介護によって、介護される側も介護する側も疲れ果てています。虐待や家庭内暴力が増え、家庭は崩壊状況です。負えない重荷をおわせられ、あえいでおられる方があまりにも多いのです。不登校者数は、過去5年間増え続け、2017年度は最高の14万人に達しており、中学生の30人に一人が不登校です。彼らにとって家庭も、学校も心を許せる居場所がなくなっているのです。また本来、社会において見本を示すべき政治家、公務員、教師、医者、警察官の中にも、使命感や道徳観が薄れ、犯罪に手を染め、道徳的に堕落し、破廉恥な行為をする人々が増えてきました。

悩める日本人、悲鳴をあげている日本人にイエス・キリストが十字架で流された血潮が必要です。罪の赦しが必要です。キリストにある平安が必要です。とりもなおさずキリストの愛が必要です。そしてキリストにある新生が必要です。八木重吉は、苦しみの中でも、キリストの愛に囲まれて、病気に勝利することができ、死を越えた永遠の世界に対する希望を抱いて神のもとに召されていきました。彼は、 “自分の気持ちは一つです。イエスが好きだ、世界中で好きだということです。”とイエス」・キリストに対する自分の心情を吐露しています。  「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)   大津集会では、毎日曜日に聖書からイエス・キリストについて学んでいます。是非教会のドアをノックして、聖書に触れて下さるように願っています。

参考文献 関茂 『八木重吉 -詩と生涯と信仰』(新教出版社)
八木重吉『神を呼ぼう』(新教出版社)

文責  古賀 敬太

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