聖書メッセージ07「人生のリコール」
第7回「人生のリコール」
「リコール」という言葉は日常用語では、主に二つの事例で使用されています。
一つは、地方自治体の首長や議員の解任要求で、有権者の1/3の署名とその後の住民投票の過半数の賛成があれば成立します。リコールとは、解任、解職のための呼び戻しを意味します。
もう一つの事例は車のリコールです。リコールとは、設計・製造上の過誤などにより製品に欠陥があることが判明した場合に、法令の規定または製造者・販売者の判断で、無償修理・交換・返金などの措置を行うことです。
良く知られているように、ドイツの自動車メーカーであるフォルクス・ワーゲン(VW)は、約1200万台の車をリコールしました。偽装工作によって規制数値の40倍を出す排気ガスを出していたことが発覚して、リコールを余儀なくされたのです。VWに対するリコール費用、賠償金、制裁金は、約7兆円にものぼるともいわれています。欠陥商品を販売しメーカーは、それを再び呼び戻し(recall)、修理して再び消費者に戻す必要があるのです。そのままだと欠陥商品はいつか事故を起こしてしまう危険性があります。
それでは、「人生のリコール」とは一体何でしょうか。それは、私たち自身が欠陥商品なので、修理されなければならないということです。神は、欠陥だらけの人間を修復し、真に実り豊かな人生を送ることができるように、呼び戻しておられるのです。
私たちが、神に呼び出されているのと、VWやトヨタのリコールとは異なる点が一つあります。
VWは、欠陥車、不良品を造ったので、メーカーとして修理する義務を負っています。しかし、聖書によれば、神は私たち人間を完全なものにつくられました。したがって、創造者である神様に責任があるわけではありません。人類の祖先であるアダムとエバが神に反逆して罪を犯し、その罪が綿々と時代を貫いて継承され、私たちは生まれながら欠陥商品、聖書の言葉を用いれば「罪」の性質を持った人間として生まれてくるというのです。それによって、人々の心の中に、憎悪、ねたみ、道徳的退廃が生じ、家庭の崩壊、いじめ、様々な腐敗や堕落、国家間ないし国内の紛争が生じています。人々は苦しみ、悲鳴をあげ、SOSを発しているのが現状です。神は、この人間の悲惨さを見て、私たちをご自身のもとに呼び戻し、私たちを新しく造り変えようとされているのです。それは、人間をつくられた製造責任者の義務ではなく、実に「恵み」と「愛」の行為なのです。
その神の呼びかけに応じるかは、実は私たち一人一人の責任です。責任は、英語でresponsibilityと言いますが、動詞responseは、「応答」することを意味します。
人間にとって最大の責任は、神様の呼びかけに「応答」することです。
神は本当に実在するのか、神は本当に私によびかけているのか、そもそも神は本当に愛なのかと問う人がいるでしょう。これは実に難問ですが、極めて重要な人生の問いで、一生をかけて追求する価値のある問いです。私たちの人生、いや永遠がかかっている問いです。この問いに対して、神のことばである聖書は、次のように語っています。 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネの手紙4:10)
いつか、またどこか遠くに、また抽象的に神の愛があるのではなく、今ここに神の愛が具体的にあるというのです。ある無神論者はGod is nowhere(神はどこにもいない)と書くつもりが、なぜかGod is now here (神はここにおられる)と書いてしまったという逸話があります。
聖書も「神は私たちひとりひとりから遠く離れてはおらず」、「もし探り求めることでもあるなら、神を見出すこともあるのです」と語っています。
「なだめの供え物としての御子」という表現は、イエス・キリストが私たちの罪のすべてを引き受けて、身代わりとして神の裁きを一身に受け、そのことにより、罪の赦しの道を開いてくださったことを意味しています。
神は、私たちのために御子イエス・キリストをこの地上に遣わし、十字架につけるほどまでに私たちを愛し、私たちを呼び戻す(recall)されているのです。是非、神のリコールに応答してください。
“恐れるな。私(神様)があなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。”(イザヤ書43:1)
“わたしは、あなたのそむきの罪をかすみのようにぬぐいさった。私に帰れ。
わたしは、あなたを贖ったからだ。“ (イザヤ書44・22)
大津集会は、「疲れた人、重荷を負っておられる方々、真理を求めておられる方々を心から歓迎します。集会所のドアを勇気をもってたたいてください。