「挫折からキリストへ」
救いの証し A兄弟
「挫折からキリストへ」
「聖書との出会い」
私は、偶然に進学した学校がキリスト教主義の学校で、そこで初めて聖書と出会いました。訳も分からず読まされる聖書、強制的に歌わされる讃美歌、校舎のいたるところに張り出されている聖句、当時13才の中学生だった私には全てが衝撃的でとても理解できるものではありませんでした。
それでも少しずつ聖書や神様の御言葉に触れて、神様を受け入れていく人生になれば良かったのですが、そうとはならずにその時は神様を素通りしてしまいました。日本に生まれ、ごく普通の一般的な日本人として育ってきた私には、イエス様は遠い外国の神様にしか思えなかったのです。
この時点で神様が聖書を通してイエス様と出会えるように計画していて下さっていることに気付くのにはまだまだ時間が必要でした。
「挫折(苦難)の時期」
卒業後、神様や聖書のことなどすっかり忘れて生活を送っていた私は、様々な挫折に遭遇しました。就職、家族や友人などの人間関係、全てにつまずきました。全てが嫌になり投げ出してしまったのです。その時に自分がいかに弱くてちっぽけな存在であるかを思い知らされました。弱くてちっぽけな自分を突き付けられ、認めざるを得ませんでした。
【求めよ、そうすれば与えられる】
そんな日々を送っていたある時、急に私の頭の中に【次の】句が雷のようによぎってきました。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか」(マタイ7:7)
【大津キリスト集会へ】
神様を求めてHP で見つけた大津キリスト集会の門をたたいた私は、集会で「原罪」について学びました。そして神様から心が離れている罪、神様を心の中心に据えて生活を送らない罪について痛感したのです。
私は全くもって的外れな日々を送っていました。何をしても上手くいかず、思い通りにならないことにより家族や友人などの周囲にあたり、常にイライラしていた自分は神様から離れていたのです。そんな罪深い自分のために、イエス様が十字架にかかって死んで下さったこと、自分の罪を贖って下さったことに感激しました。
「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです」(テモテへの手紙 第一2:6)
【再び聖書を読み始める】
再び聖書を手にし、毎日少しずつ聖書を読み始めました。意味はわからなくても、読めば読むほどに不思議と心が軽くなって癒されていくという体験をしました。またイエス・キリストの犠牲の大きさを知るようになっていきました。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(テモテへの手紙 第一1:15)
「神の計画」
イエス様をそのまま受け入れた私は、これまでの挫折体験も含め、それらすべてのことが神様の計画による導きであったと確信しました。
これまでは神様から離れていた自分ですが、これからは神様を中心に据えた生活を送り、すべてをゆだねて祈り、神様と共に歩んでいこうと思います。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ 5:8)
最後に、私の救いのために祈って下さった大津キリスト集会の兄弟姉妹に心から感謝します。