ロレンソ了斎(1526-1592)と聖書
ー琵琶法師から福音の伝道者へー
「ザビエルの来日とロレンソ」
イエズス会士フランシスコ・ザビエル(1506-1552)がトーレス神父(1510-1570),そして日本人で最初にキリシタンとなったアンジロー(1511-1550)と一緒に鹿児島に着いたのは、1549年8月15日でした。日本で最初にキリスト教が伝来した記念すべき日です。ザビエルは、鹿児島から、平戸を経由して、山口で宣教をします。それは、当時の山口の支配者である大内義隆(1507-1551)が、ザビエルの山口での宣教を許し、便宜を与えていたからです。ザビエルが語り、それをアンジローが通訳をする形で、福音の宣教が進められて行きました。
「ザビエルとロレンソとの出会い」
ザビエルが福音について話していた時、近づいて、話を聞いていたのが盲目の琵琶法師ロレンソ了斎でした。ザビエルは、デウス[神]という唯一神で世界の創造主がおられ、人間はこの方によって造られ、不滅の魂が与えられていると説きました。フロイスは、この時の状況を以下のように書き記しています。
- 「山口に、片目は全く見えず、もう一方はほんのわずかしかみえないひとりの盲人がいた。日本での一般の慣わしどおり、彼は琵琶を手に、貴人の家々で弾いては歌い、洒落や機知を操ってはその場の興をそえ、また昔物語を吟唱して、ほそぼそと生計を立てていた。 ——異国の人々がこの町で新しい教えを説いていることを耳にして、彼は、神父に自分の疑問を提出し、満足してその回答を聞いていたが、そのたびごとに聖なる教えを受け入れるだけに理解が進んだので、彼が充分に教えを受け取ってから、メステレ・フランシスコ(ザビエル)神父は、彼に洗礼を授けて、ロレンソという霊名を与えた」(フロイス、『日本史1』)
ロレンソは、ザビエルとの出会いを通して、信仰を持ち、神の福音を生涯をかけて語る人物となります。彼は、以前は平家物語を語っていましたが、今度はゼウスとイエス・キリストを宣べ伝えるようになります。フロイスは、ロレンソの宣教について以下のように述べています。
- 「ロレンソは、外見上はなはだ醜い容貌で、片眼は盲目で、他方もほとんど見えなかった。しかも貧しく穢い装いで、杖を手にして、それに導かれて道をたどった。しかしデウスは、彼が外見的に欠け、学問も満足に受けないで、読み書きもできぬ有様であったのを、幾多の恩寵と天分を与えることによって補い給うた。すなわち、彼は人並み優れた知識と才能と、恵まれた記憶力の持ち主で、大いなる霊感と熱意をもって説教し、非常に豊富な言葉を自由に操り、それらの言葉はいとも愛嬌があり、明快、かつ思慮に富んでいたので、彼の話を聞く者はすべて驚嘆した。そして彼は幾度となく、はなはだ学識ある僧侶たちと討論したが、デウスの恩寵によって、かって一度として負かされたことがなかった。」(『日本史1』)
以下、ロレンソの活動を、 フロイスの『日本史』に依拠して、比叡山、五畿内での働き、織田信長そして豊富秀吉との関係という4つの場面に着目して、紹介します。
「比叡山での論争」
ロレンソは、比叡山に入り込み、そこの高僧に対して、創造主の存在、そして死後にさばきがあり、イエス・キリストを信じることによって、救われ、永遠の命が与えられることを説きました。それに対して高僧の一人は、以下のように語っています。
- 「私は16歳で信仰の道に入り、40年以上もの間、片手で食事の支度をし、もう一方では、現世の後で人は無に帰するという禅宗の教えを書いてきた。ところで御身は、私に霊魂は不滅で、世界の創造主、人類の救い主がおられると確言なさる。私が御身から伺うことは私にとっていとも新奇であるが、私は今まで執筆してきた書き物を焼いてしまおうと固く決心した。」
「結城山城守忠正と清原重賢との論争」
ロレンソは、比叡山から、京都や堺に行き、そこで福音を伝えていました。当時五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)に影響力を持つ松永久秀(1508-1577)の臣下に学問に秀でた山城の守の結城忠正がいました。彼はキリシタンの教えが大嫌いでしたが、京都のキリシタンであるデイオゴとの討論を通して信仰仰に関心を持ち、彼の親友で和漢の書に秀でていた清原枝賢(えだかた、1520-1590)と相談して、堺や京都で宣教していたパーデレ(神父)のガスパル・ヴイレラ(1525-1572) を招いて論争することを計画します。ヴィレラは迫害の可能性を考えて、自分で赴くことはせず、代わりにロレンソを遣わします。著名で優れた学者である二人は、奈良で数日間ロレンソと論争しますが、なんと二人は無学で読み書きもできないなロレンソに説得されてしまうのです。この時の論争について、フロイスは以下のように語っています。
- 「ロレンソは、彼らに対して大いに自由に、そして我らの主なるデウスに信頼しつつ、教理を説き始め、題目を順次説明していった。そして彼らも、思い浮かんできた おびただしい質疑を持ち出しながら、修道士と話を進めた。そしてデウスの御旨により、修道士はすべて彼らが完全に満足が行くように答弁した。彼らはこうして数日間、 もつぱら宗論を交えつつ過ごした後、ついに彼らは、聴聞したことを完全に理解したので、両人ともキリシタンになることを決心するに至った。」
(『日本史1』)
二人は、キリストを信仰するに至り、ヴイレラから洗礼を受け、キリシタンになります。清原枝賢の娘には、清原いとがいました。彼女も信仰を持ち、マリアという洗礼名を与えられます。彼女は後に細川家に仕え、細川ガラシャを信仰に導くのに重要な役割を果たします。なお二人と親しかった高山飛騨の守(高山右近の父)も、奈良でロレンソから福音を聞き、キリシタンになります。高名で尊敬されていた結城忠正、清原枝賢、高山飛騨の守がキリシタンになったことは大きな反響を引き起こし、身分の高い武士や高位・高官が次々にキリシタンになり始めました。高山飛騨の守はその後、ロレンソを居城の沢城に招き、息子の高山右近初め、家族、臣下にロレンソの話を聞かせており、この時右近も母や家臣と共に、洗礼を受けています。また山城忠正の長男で、四條畷岡山城主の結城左衛門(1534-1565)もキリシタンとなり、三好長慶(ながよし 1522〜1564)の居城である飯盛城にロレンソを招き、武士たちに福音を聞かせています。その時ロレンソが語ったことについて、フロイスは、以下のように述べています。
- 「数多くの質問が出され、討論はほとんど昼夜の別なく、不断に行われた。彼【ロレンソ】は一同に非常に満足がいくように答弁し、悪魔が彼らを欺くのに用いている偶像崇拝と虚偽の宗教が誤っていることについて明白かつ理性的な根拠を示し、さらに世界の創造主の存在、霊魂の不滅、デウスの御子【イエス・キリスト】による人類の救済について説いていたので、三好殿幕下の七十三名の貴人たちは全く納得して、すぐにもキリシタンになることを決心した。」(同)
実に、この決心した武将の中に、三木判大夫がいました。彼は、後に長崎で殉教した二十六聖人の一人でイエズス会士の三木パウロ(1560年代ー1597年)の父親です。
キリシタンの歴史においては、いわゆるクリスチャンニ世が父親の信仰を受け継ぎ、歴史に跡を残した人物が多いのです。結城忠正の息子である結城左衛門(洗礼名アンタン)、清原枝賢の娘である糸(洗礼名マリア)、高山飛騨の守の息子高山右近(洗礼名 ジュスト)、三木判太夫の息子である三木パウロがそうです。
「織田信長との関係」
ロレンソは、織田信長と信頼関係を築き、たびたび織田信長を訪問し、パードレの代弁者となりました。1568年5月にフロイスとロレンソは、織田信長を訪問します。その時彼は、織田信長や重臣の前で、当時信長に重用されていた日蓮宗の僧侶朝山日乗(生年不詳〜1577)と論争を行ない、日乗を打ち負かしてしまいます。ロレンスは、創造主である神の存在と人格について語り、このゼウスを信じ、従うことが究極の幸福であると説きますが、日乗の立場は、目に見えないものは存在しないという唯物論的立場です。ロレンソは、日乗が、「拙僧に、この眼で見えもせぬ天主とやらをほめ讃え、拝まねばならぬと申さるるは、いったいいかなる根拠があってのことか」と質問したことに対して、「貴僧は、眼に見えないものは存在せぬとでも思いなのかな。貴僧は、どのような証拠によって、この世に空気というものがあることをたしかに証明することがおできになろうか」(『日本史2』)と反論しています。フロイスが魂の不滅を語った時に、日乗は、逆上し、「しからば汝の弟子ロレンソをこの刀で殺してやろう、その時、人間にあると汝が申す霊魂を見せよ」と言って、鞘から刀を抜いたと言われます。この蛮行によって、日乗に対する信長の信頼は失墜します。
信長が1582年本能寺で殺された時、ロレンソは、近くにある南蛮寺(教会)にいました。彼は信長の死を聞いて、何を思ったのでしょうか。キリシタンたちは、自分たちの有力な庇護者を失ったのです。しかし、信長をよく知っていたフロイスは、信長の本能寺の変における死は、自分を神とした信長に対する神の裁きと考えていました。フロイスは、信長について以下のように記しています。
「彼【織田信長】は、時には説教を聴くこともあり、その内容は彼の心に迫るものがあって、内心、その真実性を疑わなかったが、彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼の家臣が明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に価する者は誰もいないと言うに至ったた。—–彼は、いよいよ傲慢となり、自力を過信し、その乱行と尊大さのゆえに破滅するという極限に達したである。」(『日本史3』)
こうしたフロイスの評価からすれば、本能寺の変は、自らを神とする信長に対する神の裁きに他ならないと思われたことでしょう。
「秀吉とロレンソ」
ロレンソは、秀吉とは彼が信長の臣下であった頃からの知り合いでした。日乗とロレンソが論争した時に、秀吉はロレンソの肩をもっています。信長亡き後も、ロレンソは秀吉と親しい関係を結びました。ロレンソが1584年に秀吉を訪問した時に、「もし神父たちが余に数多くの側室を持つことを許したら、予もキリシタンになろう。デウスのおしえでは、この点だけが難しいと思う」と述べています。これは冗談ではなく、本音でした。これ以降も、ロレンソは1586年まで数回、秀吉を訪問しています。秀吉は、大阪にバテレンを招き、教会の敷地を提供するほどにキリシタンに好意を示していましたが、九州遠征の時に見たキリシタン大名の勢いや、フスタ船を誇るコエリヨ神父の行動から南蛮人の日本支配に対する兆候を感じとり、1587年7月に「バテレン【宣教師】追放令」を出したのです。それに伴って、ロレンソも堺から平戸に追放され、そこから長崎に渡ります。
「神に照らされた盲人」
彼は、長崎でも潜伏していたバテレンたちを助けて行動しましたが、1592年2月3日に長崎のコレジョ【神学校】で天に召されます。彼を知っているバテレンたちは、ロレンソのことを「神から照らされていた盲人であった」と述べています。目は見えませんでしたが、神からの光に絶えず照らされていたキリシタンでした。
ロレンソの働きがなかったならば、近畿地方においてあれほど、武士たちの間で、キリスト信仰が普及したかを理解することはできないでしょう。また、織田信長や豊富秀吉に信頼されていた彼の働きは、キリシタンの教えが広まる上で大きな影響力がありました。神は盲目で貧しく、人々に見捨てられていたこの琵琶法師を、ご自身の栄光を表す土の器として用いられたのです。本当に不思議なことです。
使徒パウロは、「私たちはこの宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測りしれない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(IIコリント4:7-8)と述べていますが、ロレンソはまさしくそのような土の器でした。
参考文献
結城了悟『ロレンソ了斎-平戸の琵琶法師』(長崎文献社、2005年)
ルイス・フロイス『日本史1、2、3、4、5』(中公文庫、2012年)