藤村操の自殺と「人生不可解」


日本や諸外国において、新型コロナウイルス感染拡大対策のための緊急事態宣言や非常事態宣言が解除されたり、緩和されたりして、一部日常生活が戻ってきている感がある。しかし、第二波、第三波が起こらないとも限らないし、とりわけ、新型コロナウイルスの感染拡大によって、一瞬にして、人間の尊い命が奪われ、人と人のパーソナルな関係が遮断され、感染の不安に襲われている現状は変わっていない。5月31日現在、感染者600万人、死者36万人に達している。しかし、こうした非日常的な現実においてこそ、物事の真実が見えてきて、大切な問いの前に立たされることがある。つまり、私は何のために生き、どこから来て、どこにいくのかという根本的な問いである。

当時第一高等学校に在籍していた藤村操(1886-1903)が、「人生不可解」と書き記して、日光華厳の滝に投身自殺をしたのは、1903年5月22日のことであった。華厳の滝の巨巌にある大樹には、ナイフで以下のように刻まれてあった。

「悠々(ゆうゆう)たるかな天壌
寥々(りょうりょう)たるかな古今
五尺の小躯 を持ってこの大をはからんとす
ホレーショの哲学ついになんらのオーソリティーを価するものぞ
万有の真相はただひとことにしてつくす、いわく「不可解」
我この恨を懐て煩悶(はんもん)、ついに死を決するにいたる
既に厳頭に立つに及んで、胸中なんらの不安なし
はじめて知る、大なる悲観は大いなる楽観に一致するを」

この言葉には、自分のようなちっぽけなものが、宇宙や人生の真理を極めることは不可能で、人間の哲学は全く役に立たないという思いがこめられている。

なおホレーショとは、藤村が愛読したシェークスピア(1564-1616)の小説『ハムレット』(1602)の主人公ハムレットの友人の名前である。『ハムレット』の第一幕第5場に、ハムレットがホレーショに「ホレーショ、天地の間には哲学などでは思いもよらぬことがある」と言っているので、ホレーショの哲学とは、特定の哲学というのではなく、人間の頭で考える哲学と言えるであろう。ハムレットは、叔父のクローデイアスが王である父を殺害し、母ガートルードを奪って自分の妻としたことを知り、叔父を殺害をして復讐をとげるか、過酷な呪われた運命を耐え忍ぶか、二者択一を迫られる。そこで彼は、有名な「生きるか死ぬか、それが問題だ」(To be or not to be、that is the questiion)と叫んでいる。

藤村もまた「生きるか死ぬか」、「存在か非存在か」という選択に立たされていたが、彼の場合には、死ななければならないという特定の具体的な問題があったわけではなく、人生の意味を見出し得ないことに対する煩悶死であった。

藤村が悩んだ人生問題とは、どのようものであったのか。土門公記は、『藤村操の手紙ー華厳の滝に眠る16歳のメッセージ』(下野新聞社、2002年)において、当時若者に愛読されていた徳富蘆花(1868-1927)の『思出の記』の中の一節を紹介している。

「一体全体ぼくは、何のために勉強するのであろう?
せっせと急いでどこへ行くのであろう?
行きつく先は死とすれば、何のために生まれてきたのであろう?
死んでどうなるであろう?」

こうした問いはどんなに時代が変化しても、私たち一人一人に投げかけられている切実な問題である。藤村は、この問題に真剣に悩み、苦闘し煩悶し、解決を見いだしえず、自殺に及んだ。彼が下した結論は人生「不可解」というものであった。哲学はこの問題に対して全く無力であった。

藤村の自殺は、彼のような若者に甚大な影響を及ぼし、社会問題化した。華厳の滝では、その年11人の若者が死に、その後四年間のうちに既遂、未遂を含め185人の自殺者を出したと言う。
もう少し、藤村の書簡を通して、彼の苦悩の内容を追跡してみよう。

自殺の約5ヶ月前の1902年12月16日に藤村が親友南木性海に宛てた書簡には、「ぼくの端書でご推察であろうが、ぼくはこの頃懐疑に陥っているのである。ぼくの脳はいまや大破壊を行なっているのである。」と懐疑や厭世観をあらわにしている。また12月25日の書簡では、苦悩は更に深まり、「ああどうしたらよいであろうか。ぼくは、日々にますます自己の弱きを嘆ぜさるをえない。——ぼくは、今や哲学的懐疑と倫理的煩悶が同時に来襲してきたので、その苦痛はとうてい言葉筆紙にあらわしえるところではない。さしあたり、ぼくは自分の意力のはなはだ薄弱なることを認めて苦悶に耐え得ぬのである。」と記している。

そして1903年2月1日の手紙では、「いつもうららかな東京の春も、この年は疑いという大雪に襲われ、また煩悩という嵐吹きて苦痛絶ゆるいとまなし。」とその思いを吐露している。当時の藤村操の苦悶について、同じく人生問題で悩んでいた一高での友人藤原正 (1884-1983)は、藤村が「人生問題とは到底解決できるものではない」と嘆いた末、「願わくは悶えに悶えて我死なん、おつに覚りてすまさんよりは」と辞世の句を発したことを伝えている。

また自殺の前日に藤村が藤原にしたためた遺書には、「宇宙の根本義、人生の第一義、不肖の僕 には、とうてい解きえぬことと断念するほどに、敗軍の戦士、本陣に退かん」とある。まさに人生の戦いに敗北した戦士のようである。また母親宛の遺書には、今まで育ててくれた母親に対する感謝とともに、「世界に益なき身の生きて効なきを悟りたれば、華厳の滝に投じて身を果たす」と記されている。

それでは、藤村が格闘した問題について、聖書は回答を与えることができるだろうか。人間の側からからどんなに回答を探しても見出すことができない。そこでは、視点の「コペルニクス的転回」が必要である。つまり、人間の生きる意味、人間の起源と行く末を、神の視点から考えることである 。なぜなら神は、人間の創造者であり、人間のすべてを知っておられるからである。地球が太陽を中心に公転しているように、人間の中心は神であり、この神の視点から、人間の全貌が明らかにされうる。

私はおくればせながら、昨年ガラ系の携帯電話をスマートホーンに変更した。私が使っているのは、電話、メール、写真などごく限られた機能だけである。しかし、スマートホーンを製造した携帯電話会社や、その会社が発行したガイドブックを見れば、スマートホーンの全貌を知ることができ、試みれば様々な機能を使いこなすことができる。

同じように人間の生きる意味、どこからきてどこに行くのかを知っているのは、人間の製作者である神だけであり、また神の言葉である聖書を通してである。聖書は人間のガイドブックであり、そこに人間の秘訣を見出すことができる。この創造者である神に思いをはせることなくして、人生の意味を見出すことはできない。創造者だけがそれを知り、聖書を通して私たちに伝えているのである。

藤村操は、1902年10月17日の南木宛書簡において、銚子半島の最東端にある犬吠岬を訪れ、その灯台を見たときの印象を、次のよう書き記している。

「この間にわれら哲学科生徒は、Nature(自然)の偉大さに驚き、Creator(創造者)の魔力に嘆じるのである。灯台守は、熱心なるクリスチャンであるそうである。なるほど、この灯台に住んで、常に不可思議の自然に接するもの、自然、宗教心を起さざるをえないであろう。」

こう書いた藤村であったが、そこから懐疑の思いが、彼を蝕むようになる。なぜ彼は自然の創造者である神について語りながら、人間の創造者である神に向かって叫ばなかったのか、なぜ彼は、人生のガイドブックである神のことば、聖書に向かわなかったのか。自然の不可思議だけではなく、人間の不可思議はただ、聖書によってのみ解決されるというのに。

当時のプロテスタントの指導者で、青年にも人気のあった植村正久(1857-1925)は、藤村の自殺後、『福音新報』に「生きるとも何の甲斐あるや」を掲載し、藤村操の死を悼みつつも、「藤村は、強いて人生の秘密を窺おうとしたが、これを宗教の眼をもってしなかったこそ、悲惨さの原因である」と論じている。「宗教の眼」とは、植村にとって、神の眼、聖書の視点であった。

聖書には、人は神によって創造され、命を与えられ、人が意識するとせざるとかかわらず、「神の中に生き、動き、存在しており」、神を求めれば、見出すことができる(使徒の働き12:27)と記されている。創造者なる神を知ることから、新たな人生がスタートする。藤村は宇宙の広大さに比べて自分がいかに小さいか、自分の無力、虚しさを痛感せざるを得なかった。彼ほど純粋かつ厳しく自らの内面を掘り下げた人は稀有であった。また彼ほど青年にありがちな出世欲、名誉心、虚飾、自尊心から自由な人はいなかった。しかし、彼は絶望の淵に陥り、自殺を決行した。

彼には自分の小ささと無力さを知り、そこから、反転して生ける神のもとに行くべき道が開かれていたのではないだろうか。オーストリアの精神科医でアウシュヴィッツ収容所で人間の悲惨と苦悩をを経験したビクトール・フランクル(1905-1997)が訴えたように、人生にノーを突きつける代わりに、絶望の淵から反転をして、「それでも、人生にイエスという」ことができたのではないだろうか。

なぜなら、神は、独り子イエス・ キリストを私たちの身代わりとして十字架につけ、私たちの罪を贖うほどまでに、私たち小さな者、罪人を愛され、ご自分のもとに失われた魂が帰ってくることを待っておられるからである。 神は語られる神である。神は聖書を通して私たち一人一人に語り続けておられるのである。

「恐れるな。わたし(神様)があなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、私のもの。—わたしの目にはあなたは高価で尊い。あなたは私を愛している。」(イザヤ43:1、4節)

「たとい山が動き、丘が動いても、私の真実の愛はあなたから移らない。」(イザヤ54:10)

人には様々な責任がある。責任とは、英語で responsibility であるが、response とは応答することである。そして人間最大、かつ最高の責任は、神の声に応答することではないだろうか。

参考文献
土門公記『藤村操の手紙』(下野新聞社、2002年)
平岩省三『検証 藤村操ー華厳の滝投身自殺事件』(不二出版、2003年)
『植村正久とその時代』(教文館、1976年)
文責 古賀敬太