第23回 「聖書入門ーキーワードで読む」

第二十三回 恵み(grace, χάρίϛ,カリス)

「恵み」

「恵み」のギリシャ語カリスは、新約聖書で155回、そのうちパウロの手紙で87回(56%)使用されています。カリスの動詞形、つまり「恵む」は、カリゾマイ(χαρίζομαί)で、23回使われています。
 もともと古典ギリシャ語で、「恵み」とは、「親切」、「好意」、「魅力」などを意味し、聖書の「恵み」のように深い意味をもっていませんでした。同じχάρίϛ(カリス),という言葉を使っていても古典ギリシャ語と聖書のギリシャ語(コイネー)の意味は異なっています。
「恵み」は、信仰において最も重要な概念です。というのも救いは、人間の努力や功績によって成立するものではなく、ただ神の恵みによって可能であるからです。

「恵みと報酬の違い」

 一つの言葉を定義する際に最も効果的な方法は、反対語を思い浮かべることです。聖書では「恵み」の反対語として「報酬」(μισθος,ミソース)が挙げられています。ローマ人の手紙4章4~5節には、以下のように書かれています。
 “働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払らわれるべきものとみなされます。しかし働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。”
 ここでは、人が義とみとめられる、つまり救われるのは、報酬ではなく、恵みと語られてています。報酬は例えば労働に対する対価で、長時間働けば、それだけ賃金も増加します。しかし救いに関しては、善い行いに対する報酬ないし対価ではなく、ただ神の恵みです。
善行を積めば、神に近くなると考えるのは根本的な間違いで、自分は何の良き行いができない者であることを認めて、ただ神の恵みにすがることが必要です。総じて「恵み」とは、受けるに値しない罪人に注がれた神の愛、価値なき者に与えられる神の愛です。

「恵みはイエス・キリストを通してくる。」

 恵みは、イエス・キリストによって私たちに現わされました。「律法はモーセによって与えられ、恵み(カリス)とまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネの福音書1:17)まさに、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、罪の赦しを実現されたイエスこそ、私たちに対する神の恵みそのものです。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」(ローマ書3;24)

「救いは、恵み+アルファ?」

ある人は、恵みだけで救われるのは虫が良すぎると考えます。恵みは大事だけれども、自分でも頑張って努力して救われることが必要であるというのです。それは、人間的にはとても聞こえがいいのですが、実は恵みの価値を否定し、キリストの十字架の完全性を否定する考えです。聖書には、「恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ書11;6)とあります。恵み+行いを救いの条件とすることは、福音の本質をゆがめるものですので、注意しましょう。

「恵みを受けたメフイボシェテ」

恵みの特徴を示しているのが旧約聖書に登場するメフイボシェテです。私の家内は三年前から飼っている猫にメフィという名前をつけています。フルネームは、メフィボシェテです。我が家に引き取られてきた時には、足が悪く、びっこを引いていました。実はこのメフイボシェテは、旧約聖書のサムエル記に登場するサウル王の息子の子の名前です。ダビデとの戦いで、サウルもヨナタンも死んでしまいますが、ダビデとヨナタンの契約によって、メフィボシェテはサウルの子孫であるにも殺されず、ダビデのあわれみによって、王と一緒に食事をする栄誉を与えられます。メフィボシェテになにか取り柄があったわけでもなく、利用価値のある実力や才能を備えていたわけではありません。それどころか、彼は足が悪く、歩けなかったのです。彼が、恵みを与えられたのは、ただヨナタンとダビデの契約によるものでした。恵みは、一時的なものではなく、契約に基づく客観的なものです。メフイボシェテとダビデの会話を紹介します。 
 「サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデの所に来て、ひれふして礼をした。ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は言った。「はいあなたのしもべです。」ダビデは言った。「畏れることはない。私はあなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵み(ヘブル語でへセド)を施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。彼は礼をして言った。「いったい。このしもべは何なのでしょうか。あなた様が、この死んだ犬のような私を顧みてくださるとは。」(Ⅱサムエル記9:6~8)
 まさにダビデがメフィボシェテに施した恵みこそ、神がイエス・キリストの身代わりの犠牲のゆえに、私たちに注がれたものなのです。それは、新しい契約における神の恵みです。ちなみに旧約聖書の七十人訳ギリシャ語聖書では、「へセド」が、恵み「カリス」と訳されています。「へセド」は契約に基づく神の愛、神の恵みを意味する重要な言葉です。

「パウロの経験」

最後にパウロの経験を通して、神の恵みについて考えたいと思います。パウロはクリスチャンを迫害し、投獄するという大罪を神に対して犯していました。そのような返済不可能な罪の負債を負った自分のようなものを、神は恵みによって赦されたという感謝が、パウロの働きの原動力でした。彼は、晩年、次のように語っています。
 “私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ち溢れました。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。”(Ⅰテモテ1:14~15)
罪人のかしらであったパウロにとって救われる道は、ただイエスの十字架の贖いという神の恵みによるものでした。

「恵みの時代」

聖書は、イエス・キリストが来られて現代までの時代を「恵みの時代」と言っています。私たちは特別の恵みの時代に生きているのです。
 “神はいわれます。「恵みの時に、私はあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。”(Ⅱコリント書6:2)
 この「恵み」の時代に、イエスを信じて救われる者となって下さい。

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