第22回 「聖書入門ーキーワードで読む」
第二十二回 奥義(mystery,μυστήρίον、ミュステ―リオン)
【奥義の定義】
「奥義」という言葉は、新約聖書で27回使用されていますが、マタイ、マルコ、ルカの福音書に各一回づつ使用され、パウロの手紙で20回、黙示録で4回使用されています。奥義とはいったい何でしょうか。それは、ふつう一般に考えられるように神話とか神秘とは全く関係がありません。それは、旧約聖書では隠されていたことが、新約聖書において明らかに示されることを意味します。つまり神の救いの計画の全貌が、新約聖書において明らかにされることです。奥義として述べられていることを福音書とパウロの手紙に分けて考えて見ましょう。
【 福音書における奥義】
福音書で出てくる場合は、いづれも「神の国」(kingdom of God、βασιλεία τοû θεοû, バシレイア・トゥ-・セウー)の奥義です。マタイは、「神の国」ではなく「天の御国」という表現を用いています。キリストとともに、時が満ち、神の国=神の支配が到来しました。イエスは、神の国の奥義として、神の国がどのように成長するかを、種まきのたとえで語っておられます。(マタイ13:11、マルコ4:11、ルカ8:10)
【パウロ の書簡における奥義】
次にパウロの書簡に現れる神の「奥義」を五点に分けて考えてみましょう。
第一の最も重要な奥義はキリストです。パウロは、「世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義」について語り、「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。こも奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ書1:27)と語っています。またコロサイ書2章2節には「神の奥義であるキリスト」と記されています。キリストの全貌は旧約聖書において預言されていましたが、新約において覆いがとり除かれ、イエスの誕生、十字架の死、復活においてはっきりと明らかにされました。
第二の奥義は、キリストと教会との関係です。教会は旧約聖書では全く出てきません。それは、イエス・キリストの昇天後のペンテコステ(聖霊降臨)の結果として誕生しました。エペソ書5章においては、夫と妻の関係がキリストと教会との関係にたとえられて、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。——この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」(エペソ書5:25、32)と書かれてあります。
第三の奥義は、異邦人にも救いがもたらされ、対立していたユダヤ人と異邦人がキリストにあって和解され、同じキリストのからだなる教会に属するようになるという神の計画です。この「キリストの奥義」について書かれてある箇所をエペソ人への手紙三章から引用します。
「この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、
今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。
それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続者になり、
ともに同じからだにつらなって、ともに約束にあずかる者になるということで
す。」(エペソ書3:5〜6)
今まで紹介した神の奥義は、すでに実現したものですが、次の二つは将来実現するものです。
第四の奥義は、現在イエス・キリストを拒んでいるユダヤ人が終わりの日に民族的に悔い改め、イエスを受け入れて救われることです。
「兄弟たち、あなたがたが、自分を知恵ある者と考えないようにするために、この
奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエルの一部が頑なになったのは異
邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるので
す。」(ローマ書11:25〜26)
「異邦人の満ちる時」とは救われるべき予定された異邦人が皆救われて、異邦人に
対する神の計画が実現することを意味します。その後イスラエルに対する神の取り
扱いが始まります。
第五の奥義は、キリストが再臨される時、信者が栄光の身体に変えられるという神の救いの計画です。「聞きなさい、私はあなた方に奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私達は変えられるのです。」(コリント第一の手紙15:51〜52)とあります。パウロは、この時を待ち望み、「私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」(ローマ書8:28)と語っています。
【パウロの使命ー神の奥義を伝えること】
パウロは、自分を「キリストのしもべ、神の奥義の管理者」(コリント第一の手紙4:1)
と述べています。彼は、明らかにされた神の奥義であるキリストを宣べ伝えることに全生涯を費やしました。彼は、この奥義であるキリストが再び覆われてしまうことには、我慢がなりませんでした。キリストこそ彼のいのちそのものでした。クリスチャンもパウロと同様、神の奥義の管理者、また伝達者であることを覚えたいと思います。