第21回 「聖書入門ーキーワードで読む」

第二十一回 救い主(σωτήρ、ソーテール)

すでに私たちは、第七回でイエスが「キリスト」(χρστóς)であること、第八回でイエスが「主」(κύριος)であること、第十二回でイエスが「仲介者」(μεσιτης)であること、第十六回でイエスが「神の子」(υιος του θεου)であることを学びました。今日は、イエスが「救い主」(σοτηρ)であることを考えます。
 イエスがキリストであるという場合、そこに救い主という意味も含まれていますが、別にソーテールという言葉がイエス・キリストについて16回用いられています。この言葉は人間に対しては用いられていません。イエス・キリストと神についてだけ、「救い主」という言葉が用いられています。

 最も有名な聖書の箇所は、クリスマスの時に必ずといっていいほど読まれる次の聖句です。「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書2:11)
またヨハネの福音書でサマリアの人々が、イエスを「救い主」として信じた記事が記されてあります。「彼らはその女に言った。もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(ヨハネの福音書4:42)

 また使徒の働きにおいては、「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主を送って下さいました。」(使徒の働き13;23)とあります。更にⅠヨハネの手紙では、「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを」見て、その証しをしています。」(Ⅰヨハネ4;14)とあります。
 救い主は、ただイエスおひとりです。
 それでは、イエスは何から私たちを救われる救い主でしょうか。ユダヤ人たちは、ローマの帝国支配からイスラエルを解放する政治的救済者と考えていました。しかし、新約聖書においては第一義的に神の裁きからの解放であり、罪の赦しを意味しています。イエスが、私たちの罪を負って十字架で死ぬことによって、罪の赦しの道が開かれました。

 もう一つは、将来的な救いで、イエスの再臨の時の信者の復活と栄化を指しています。例えばピリピ人への手紙においては、イエスの再臨について、「しかし私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私達は待ち望んでいます。キリストは、万物を御自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3;20)とあります。またテトスへの手紙においては、「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むようにと教えています。」(テトスへの手紙2:13)と記されてあります。
ちなみに「救い」の名詞形はソーテリア(σωτηρίāα),動詞の救うはソーゼイン(σώζειν)です。例えば、「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)とあります。
今日は、十字架につけられ、三日後に甦られたイエス・キリストが私たちの「救い主」であることを覚えてください。

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