第20回 「聖書入門ーキーワードで読む」
第二十回 再臨(παρουσία, パルーシア、second coming)
「再臨のギリシャ語パルーシア」
「再臨」のギリシャ語「パルーシャ」は、新約聖書では24回使用されていて、邦訳では、「来臨」、「来られる」、「到来」などと文脈に応じて異なった訳がなされています。パルーシャは、パラ(~と一緒に)とウーシア(存在)から成り、古典ギリシャ語では、「存在」、「出席」、「到着」を意味し、ヘレニズムのギリシャ語では、皇帝や高官の公式訪問に用います。「パルーシャ」は、新約聖書では王なるキリストが再び来られて、信仰者を救いの完成に入れることを意味します。例えば、「新改訳聖書2017」では、マタイの福音書24章27節には「人の子の到来(パルーシア)は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです」とパルーシアが到来と訳されています。また1コリント15章23節「しかしそれぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨(パルーシア)のときにキリストに属している人たちです。」と、パルーシアが「来臨」と訳されています。また1テサロニケ4章16節では「主ご自身は天から下って来られる(パウーシア)」と、パルーシアが「来られる」と訳されています。
「新約聖書における再臨の位置づけ」
内村鑑三という近代のキリスト教の指導者は、聖書全体を理解する上での再臨信仰の重要性を以下のように述べています。
「このキリストの再臨こそ、新約聖書の至る所に高唱する最大真理である。マタイ伝より黙示録に至るまで、聖書の中心的真理は再臨である。是を知って聖書は極めて首尾貫徹せる書となり、その興味は激増し、その解釈は最も容易となるのである。是を知って聖書研究の生命は無限に延びるのである。」
そして彼は、キリストの再臨を信じなければ、 聖書 のうるわしき語は、ことごとく無意味に帰するが、逆に再臨の光に照らされて聖書を読む時に、聖書の一句一句が皆躍動して、聖書の一貫性が理解できると主張しています。
「再臨の目的」
次にイエス」・キリストの再臨の目的について考えてみましょう。
再臨の目的は、第一はクリスチャンの救いの完成で、栄光のからだに変えられることです。パウロは、この時の事を、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」(ローマ書8:23)と書き記しています。魂の救いのみならず。身体が栄光の身体に変えられることによって救いが完成します。
第二は、神の支配が確立される神の国の実現です。黙示録には、「この世の国は私たちの主およびキリストのものとなった。王は永遠に支配される。」(黙示録11;15)と記されてあります。死やサタンが滅ぼされ、「大きな白い御座」(黙示録20:11)で不信者に対するさばきが行われた後、神の完全な支配が実現します。そこでは、「もはや死もなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4)と記されてあります。
「再臨の準備」
再臨の準備の第一は、主がいつ来られてもいいように、目をさましていることです。クリスチャン生活自体が、主を待ち望む希望によって貫かれている必要があります。主を待ち望むことによって、日々の生きた緊張感が生まれてきます。
再臨の準備の第二は、聖い生活をして、主を待つことです。再臨は、花嫁なるクリスチャンが花婿であるイエスと出会う時なので、花婿にふさわしい花嫁となるように、つまりキリストに似せられていくように聖められていくことが大事です。1テサロニケ3章13節においては、「あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスが御自分のすべての聖徒たちと共に来られる(パルーシア)ときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。」とあります。
再臨の準備の第三点は、「堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」(Ⅰコリント15;58)とあるように、日々主のために自らを捧げていくことです。
「マラナ・タ」
マラナ・タという言葉は、イエスの時代のクリスチャンたちが使っていた「主よ、来たりませ」というアラム語です。1コリント16章22節には、「主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ来てください。」とありますが、この「主よ来てください」がマラナ・タ(Μαπάνα θά)の訳です。現在でもクリスチャンたちの手紙の最後には「マラナ・タ」という言葉が付け加えられている場合が多くみられます。日本語で云えば「敬具」と同じ意味で使われています。それでは。 マラナ・タ