第10回 「聖書入門ーキーワードで読む」
第十回 義認(δικαιὀω,ディカイオオー、justifucation)
「義と認める」(δικαιὀω)という言葉は、新約聖書で39回使われ、特にローマ人への手紙で15回、ガラテヤ人への手紙で8 回用いられています。多くは、「義と認められる」、つまり義とされるという意味で受動態で用いられています。また義という名詞はδικαιοσύνη(ディカイオシュネー)で、91回使われています。それでは、この義認について、4つのポイントで考えてみましょう。まさに、この「義とされる」ことに目が開かれて、ルターの宗教改革が始まり、救いの真理が回復されたのです。「義とされる」ことは、「贖い」と同様、救いの中心的なキーワードです。
「第一のポイントー義認は法廷用語」
法廷では、検察官が被告の罪を追及し、弁護人が弁護し、最後に裁判官が判決を下します。関係者や傍聴人は、どのような判決が下されるか、緊張して待っています。その時に無罪であるという判決が、「義とされる」という意味です。つまり無罪宣告です。
私たちは、人生の総決算として、いつかは神の法廷に立ち、自分がしたことに対して説明責任(アカウンタビリティ)を果たさなければなりません。その時、無罪判決を受けるか、有罪判決を受けるかのどちらかです。本来、人間は罪人として有罪判決を受けて当然でした。ローマ人への手紙では、すべての人が罪の下にあり、「義人はいない、一人もいない」(ローマ3;10)、「全世界が神の裁きに服する」(ローマ3;19)と記されてあります。自分の力では自分の罪を清算できません。しかし神は、行いとは別の方法によって、罪人に無罪判決を下す道を開かれました。
「第二のポイントー義認は信仰によって」
つまり、イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架にかかり、血を流して、代わりに裁かれて下さいました。私たちは、ただイエス・キリストに免じて、イエスを信じる信仰によって義とされると聖書は語っています。つまり「行いによる義」ではなく、「信仰による義」です。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ書3:28)とある通りです。この信仰による義の発見こそ、ルターの宗教改革の出発点でした。
「第三のポイントー神の恵み」
有罪判決を受けて当然なものが無罪判決を受けて義とされ、罪赦されるわけですから、それは神の一方的な恵みです。聖書は、「ただ神に恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに価なしに義と認められます。」(ローマ3:24) と語っています。この「価なしに」のギリシャ語はδωρεὰν(ドーレアン)でただを意味します。つまりこちらが何をしなくても、イエス・キリストを信じ、受け入れるだけで、罪赦され、義とされるのです。これが恵み(カリス)の意味です。「ただほど怖いものはない」と反論する人もいますが、神の恵みを感謝して受け入れるためには、神の前におけるへりくだりが必要です。プライドの強い人、神の前に白旗を挙げようとしない人は、恵みを恵みとして受け入れようとしません。自分は神や人から恵まれる存在ではないと呟くのです。以前の私がそうでした。それは自分の罪の深さにきずいていないからです。クリスチャンを迫害していたパウロは、自分の罪の大きさにもかかわらず、恵みによって救われた喜びを以下のように告白しています。
「私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれまし
た。キ リスト・イエスは罪人を救うために世に来られたということばは真実であ
り、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1テ
モテへの手紙1:15)
「第四のポイントー義認と神の義の関係」
実はイエスの十字架は、信じる者が神の前に義とされる恵みであると同時に神の義、つまり神の正しさを示しています。神の前に義とされると同時に神の聖さや正しさが現わされなければなりません。まさにイエスの十字架において神の愛と神の正しさが同時に示されています。「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(ヨハネの福音書1:17)とある通りです。
つまりイエスの十字架の死は罪を裁く神の聖さや正義の現れであり、同時に信じる者を義と認めてくださる神の愛の現れです。
「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物とし
て、公 にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、
今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。こうして
神ご自身が義(ディカ イオシネース)であり、また、イエスを信じる者を義と御認め
になるためなのです。」(ローマ人への手紙3:25-26)
「第五のポイントー義の衣を着せられる」
第五のポイントは、イエスを信じる人々は、罪赦されるだけではなく、キリストの義の衣を着せていただき、完全なるものとして神の前に立つことができることです。これには、新約聖書におけるたとえとして、ぼろぼろの服を纏って帰ってきた放蕩息子に父親が、「一番良い着物を持ってきて着させ」、子として受け入れたことに示されている真理です。これが、義とされた人が神の前に持っている立場です。いわば乞食が王子にされた立場です。ただ王子とされた乞食が、王子とされても状態において乞食の時の習慣を継続し、王子としてふさわしくないこともありますが、王子としての立場は変わらないのです。