第8回 「聖書入門ーキーワードで読む」

第八回 主(Lord,kύριος、キュリオス)

「主であるイエス・キリスト」

聖書では、イエスは救い主であると同時に主であると語っています。例えばペテロ第二の手紙2章20節では、「主であり、救い主であるイエス・キリスト」(IIペテロ2:20)とあります。イエスは、私たちの罪を負い、十字架にかかり、罪の赦しの道を開かれた救い主です。クリスチャンは、イエスを罪からの救い主として信じますが、それだけではなく「主」(kύριος)として従います。主とは政治用語ですが、支配者という意味です。つまり、私たちの人生を支配するお方です。旧約聖書では、「ヤーゥエ」(YAWH) ないし「アドナイ」という神を表わすヘブル語が、ギリシャ語では「キュリオス」と訳されてあります。「主」とは神を示す言葉でもありますので、イエスは神として全ての権威を持っておられる方です。
新約聖書では、主イエス、ないし主イエス・キリストということばは、125回出てきます。イエス・キリストの十字架による罪の赦しと救いを知っているからこそ、自分の人生を「主」に任せることができます。

「皇帝が主か、キリストが主か」

ローマ書には、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神が死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです。」(ローマ書10:9)とあります。私たちは当時の時代的背景を考える必要があります。当時クリスチャンは、イエスを主として従うべきか、皇帝を主として従うべきか、二者択一を迫られていました。イエスを主と告白することは、迫害を受け、場合によっては殉教の危険性がありました。イエスを「主」として従うことは、イエスを神として告白することであり、自分の主権をイエス・キリストに明け渡すことでもあります。

「夏目漱石のキリスト教批判」

夏目漱石は、「断片」(一九〇五年十一月から一九〇六年夏までの断章)において、
神を信じることは、神の奴隷となることだといっています。

「どうして神を信じないのか。自分を信じるので、神を信じないのである。全宇宙のうちに自己より尊きものはない。自分を尊いと思わないものは奴隷である。自分を捨てて神に走る者は神の奴隷である。神の奴隷になるよりは、死んだ方がましである。」

夏目漱石にとって、神なき個人主義の立場に立てば、自分をキリストの支配に従わせることは、キリストの奴隷になることであると思われたのです。自分こそ宇宙の中心でなければならないのです。しかし聖書は、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ書1:13、14)と記しています。救いとは、人生の中心が自分からキリストへ180度転回することです。主権の転換が起こるのです。

「キリストを主として従う動機」

キリストを主として従う動機は、神によって強制されて、脅されて、あるいは利得目的からおこなわれるものではありません。上記の聖書の言葉にあるように、キリストが私の罪のために十字架にかかり、命を捨てるほどまでに私を愛してくださったという、キリストの愛に対する感謝と応答から生み出されてきます。キリストは強制されてではなく、自発的、自主的な服従を喜ばれます。今日、キリストに従うことが理解されない、ないし誤って理解される原因は、神なき個人主義があたりまであると思われ、神のない人生に慣れきって、したい放題の自由を享受しているからではないでしょうか。今日、若い人の好きな言葉は「自由」であり、最も嫌いな言葉は「権威」、ないし「従う」ことです。

「トマスの告白」

トマスという弟子は疑い深い性質を持っていました。彼は、イエスがよみがえられたという他の弟子たちの証言を聞いても容易に信じませんでした。しかし、彼が墓を打ち破って復活されたイエスに出会った時に、トマスは「私の主 (kύριος)、私の神(θεός)」(ヨハネの福音書20:28)と告白しています。イエス・キリストは「主」であり、「神」です。イエス・キリストを救い主として信じることは、取りも直さず、「主」として従うことです。パウロは、ローマ人への手紙1章と16章中で、「すべての異邦人の中に『信仰の従順』をもたらす」(1:5,16:26)と福音宣教の目的について語っています。

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