第7回 「聖書入門ーキーワードで読む
第七回 キリスト(Christ、Χρστός、クリストス)
「イエス・キリスト」
イエス・キリストは、大谷 翔平というように、姓と名前の関係ではなく、イエスこそがユダヤ人が待ちに待っていたキリストであることを指しています。それでは、キリストとはどういう意味なのでしょうか。クリストスというギリシャ語の言語は新約聖書に531回、パウロの書簡に383回用いられています。
「キリストの意味」
ギリシャ語のキリストは、ヘブル語のメシアの訳で、「油注がれた者」を意味します。旧約聖書で「油注がれ」、高い地位に就任したのは、大祭司、預言者、王でした。神によって選ばれた地位に就く時に、「油注ぎ」という儀式が行われます。
大祭司は、神と人との間の仲介者で、人のために神にとりなしをする職務を持っています。また預言者とは神のことばを預かり、神の代理人として神のことばを語る人のことです。そして王とは、国民を支配する支配者を意味しています。旧約時代は、この三つの職務は、それぞれ異なった人々に割り当てられていましたが、イエスは、この三つの職務を全て一身に集中して持っておられる油注がれたキリストです。
「イエスに対するユダヤ人の態度」
旧約聖書、特にイザヤ書とエレミヤ書には、キリストが来られるというキリスト預言で満ちています。しかし、実際にイエスがメシア=キリストとしてこられた時、ユダヤ人たちはイエスがキリストであるとは信じないで、イエスを迫害しました。しかし信じた少数のユダヤ人もいました。特にエルサレムに住んでいたシメオンとアンナがそうでした。
シメオンは幼児イエスを腕に抱きしめ、「主よ。今こそあなたは、お言葉通り、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを 。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
(ルカ2:29〜32)
と狂気して喜んでいます。また女預言者で、夜も昼も神に仕えていたアンナは、
「エルサレムの贖いを待ち望んでいた全ての人に、この幼子のことを語った。」
(ルカ2:38)
とあります。
「二つのキリスト理解」
しかし、なぜ多くのユダヤ人たちはイエスをキリストとして受け入れなかったのでしょうか。ユダヤ人たちの一般的なキリスト像は、当時のイエスの弟子たちも含めて、ユダヤ人をローマの圧政から解放する政治的王でした。ローマ帝国の植民地下にあったユダヤ人は強力な政治的支配者としての王を求めていたのです。確かにイザヤ書には、強力な支配者としてのキリスト預言が存在します。
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
(イザヤ書9:6〜7)
しかし、イザヤ書にはもう一つのキリスト像があり、それは、私たちの罪を身代わりとして負う「苦難の僕」としての姿です。
「彼は私たちのそむきのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かっていった。しかし、主は私たちのすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53:5〜6)
当時のユダヤ人たち、そして弟子のペテロでさえも、ユダヤ人の王としてのキリスト像を確信していたので、イエスが苦しみを受けて殺されることを語られた時に、それを信じようとしないばかりか、イエスをいさめ、「主よ。とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」(マタイ16:22)と、イエスの言葉を否定しています。師と弟子の立場が全く逆転しています。
しかし、御使いは、イエスが生まれるに際して、ヨセフに対して、「マリアは男の子を産みます。その名をイエスと名づけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)と語っています。まさに罪からの救い主としてのキリスト像です。またイエスをキリストとして証するために遣わされた バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネの福音書1:29)と述べています。旧約時代においては、子羊がほふられ、血が流されて、一時的に罪の赦しがなされる儀式が行われていましたが、バプテスマのヨハネは、そのことを念頭において、イエスこそが十字架につけられ、血を流して、永久に罪の問題を解決してくださるキリストであると宣言しているのです。
聖書では、罪の贖い主としてのキリスト像とユダヤ人の王としてのキリスト像は矛盾するものではありません。前者はイエスの初臨において実現し、後者はイエスが地上に再臨されて、「メシア王国」が実現する時に実現します。
「神の子としてのキリスト像」
ユダヤ人がイエスをキリストと認めなかった理由が実はもう一つありました。当時、キリストが来られることを待っていたユダヤ人たちは、キリストが人間であり、神の子、ないし神であると思ってはいませんでした。従って、大祭司が、イエスに「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と迫り、イエスが「その通りです」と答えた時に、大祭司は衣を引き裂き、「この男は神を冒瀆した」(マタイの福音書26:63-65)と有罪判決を下したのです。
他方、ペテロがイエスに対して、「あなたは生ける神の子キリストです」と信仰告白した時に、イエスは喜ばれ、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」(マタイの福音書16:16-17)と語られました。
イエスは、全く罪のない神の子だからこそ、罪人の罪を負って十字架にかかり、身代わりとして裁かれることのできる唯一のお方です。神の子イエス・キリストの犠牲の死によって、イエスを信じる人々に、罪の赦しの道が開かれました。
今日においてもイエスを神の子、ないし神であることを否定する人々がいます。統一教会、エホバの証人、モルモン教という異端の新興宗教がそうです。また神の子イエスではなく、人間イエスを強調することによって、キリスト教を受け入れやすいようにする試みもあります。しかし聖書は、「御子【イエス・キリスト】は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである」(ヘブル書1:3)と明確に語っています。100%人間であり、100%神であるイエス・キリスト、そこに聖書の奥義があります。
「ペテロの信仰告白」
最後に、イエスが復活される前には、イエスの十字架の死を否定していたペテロが、復活されたイエスと出会った後、ペテロ第一の手紙で語っていることを紹介して終わりたいと思います。
「キリストは罪を犯したことがなく、
その口には欺きもなかった。
ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、脅すことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになった。
キリストは自ら十字架の上で、
私たちの罪をその身に負われた。
それは、私たちが罪を離れ、
義のために生きるため。
その打ち傷のゆえに、あなた方はいやされた。
あなた方は羊のようにさまよっていた。
しかし今や、自分の魂の牧者であり、
監督者である方のもとに帰った。」
(1ペテロの手紙2:22〜25)