第5回 「聖書入門ーキーワードで読む聖書罪(ἀμαπτία、ハマルティア)

聖書入門ーキーワードで読む聖書」
第五回 罪(ἀμαπτία、ハマルティア)

聖書の中でもっとも重要ですが、同時に最も理解されていないのが罪という概念です。聖書のメッセージを聞かれた方が、「あなたは罪人です」と言われると、「そんなはずはない」と反感を露わにされるか、「みんな、同じだ、私だけではない」と開き直られるかどちらかです。しかし、この罪の問題の理解なくして、聖書の示す救いに与ることは出来ません。ここでは、罪の問題を4つのポイントから考えてみたいと思います。

「罪と犯罪は同じではない」

まず第一に聖書が語る罪は、法律を犯す犯罪と同一ではありません。それでは、罪と犯罪とはどのように異なるのでしょうか。犯罪は、法を侵害する行為です。赤信号を無視して運転すると、道路交通法違反で、処罰されます。あるいは、人を殺害すれば、殺人罪で逮捕され、起訴されます。犯罪は、人間の外側の行為のみを問題とするだけで、心の中に殺意を問題とすることはできません。もちろん量刑に関しては、殺意があったかどうかが調べられますが、殺人をおかしていなければ、殺意だけでは裁かれません。しかし、聖書が語る罪は、犯罪と異なり、人間の内面をも問題にします。

「人間の心の中にあるもの」

したがって第二に、私たちの心の中に生じる殺意、嫉妬、情欲、悪意、不品行などが、罪として対象になります。日本では、2019年から始まったコロナ感染で、三密を避けるという政府の呼びかけの下に、マスクをして、密閉、密接、密集を避けることに注意が払われてきました。私も家内も4回ほどワクチンを打ちましたが、その甲斐なく感染してしまいました。私たちは外から何か悪いものが入ってこないか身構えますが、私たち自身の心の中にある病原菌には注意を払いません。聖書は次のように記しています。
“イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹にはいり、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし口から出るものは心から出てきます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出てくるからです。これらのものが人をけがします。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」”(マタイの福音書15:16-20)
私たちの内にあるこうした悪いものは他人に容易に伝染し、きまずい関係、ある場合には公然とした対立を生み出します。国と国との関係においては戦争へと発展していきます。私たちは、自分の心の思いを他人に知られないように、隠そうと努力しますが、すべてを知っておられる全知の神の前には、隠しおおせることはできません。聖書は、私たちはこの罪の性質によって支配されていると語っています。自分ではどうすることもできないのです。人間は罪の奴隷なのです。

「神の基準」

このように、心の中にある悪しき堕落した罪の性質は、聖書が語っている罪です。外側の犯罪は、自制できずに罪の思いが行為としてエスカレートしたものです。
第三のポイントとして、こうした人間の罪の性質、自分が汚れて腐敗しているという自覚は、聖なる神を基準として初めて理解できるものです。人を基準にして自分の状態を考えると、振り子のように揺れ動きます。比較する相手によって、「私はあいつよりましだ」と優越感を覚えたり、「あの人にはかなわない」と劣等感を覚えます。どんぐりの背比べですね。しかし、聖であり、義である神の基準からすれば、すべての人が神の基準に到達できない罪人です。
平屋の家と三回建の家があり、正面から見ると歴然とした高さの違いがありますが、飛行機から見れば、同じです。罪とは、神の基準に到達できないことです。
聖書は、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができない」(ローマ人への手紙3:23)とありますが、これは、神の栄光に達することができない、つまり神の基準を満たすことができないことを意味しています。もし私たちが大学入試の基準を満たせず、不合格になるならば、希望の大学には入学できません。同様に、神に基準に達しない罪人は「神の国」(天国)に入ることは出来ず、神に裁かれ、永遠の滅びに入ります。
旧約聖書でイザヤという預言者は、神の聖さに触れて、自分の罪を自覚しました。聖書は次のように語っています。

”聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
その栄光は全地に満つ。—–私は言った。
「ああ私は滅んでしまう。この私は唇の汚れたもので、
唇の汚れた民の間に住んでいる。」“(イザヤ書6:3、5)

イザヤは外側の罪の行為をしたからではなく、聖なる神に触れて、自分の罪の性質に恐れおののいたのです。それでは、私たちが神の基準に到達できない原因は何でしょうか。実はここに最も大きな問題があります。第四のポイントは、私たちが神の基準に到達できないのは、私たちが創造主である神に背を向け、神から離れている、神との生ける交わりから切り離されているからだと聖書は語っています。

「罪ー的外れ」

罪とはギリシャ語でハマルティアと言います。的外れという意味です。本来歩むべき人生から逸脱し、道を踏み外していると言うのです。それは、神によって命を与えられ、愛されているにもかかわらず、人は神に背を向け、神から逃走している忘恩の徒だと言うのです。したがって的を射る生き方とは、神に帰り、神を中心とした生き方に180度転回することです。それは、自己を中心にした生き方から神を中心とした生き方に転換する点において、天動説から地動説への「コペルニクス的転回」と言える大転回です。人間が的を射た歩み、本来の人間としての歩みをするためには方向転換して神に帰らなければなりません。

「神に帰る」

しかし、神に帰るためには、私たちの罪が赦されている必要があります。罪が神と私たちとの仕切りとなっているからです。私たちは自分の努力によって、罪を清算することはできません。私たちの罪が赦され、神に立ち帰るために、全く罪のない神の子イエス・キリストの身代わりの犠牲が必要でした。聖書は次のように語っています。

「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。
その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。
しかし今や、魂の牧者であり、監督者である方のもとに帰ったのです。」

(1ペテロの手紙2:24-25)

「神の前に義とされること」

聖書は、イエス・キリストの十字架によって罪赦されて、神に帰ることを、「義とされる」という言葉で説明しています。「神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを通して、価なしに義と認められるのです。」(ローマ書3:24)
「イエス・キリストの贖い」とは、イエス・キリストが私たちの罪を負って身代わりとして死んで下さったこと、また罪の支配から私たちを神の支配へと買い戻してくださったことを意味します。なんとイエス・キリストを信じる人は、神の子供とされるのです。また義と認められること、つまり義認とは裁判用語で、罪が赦されて、無罪放免されることを意味します。しかしそれだけではありません。義とされたものは、キリスト・イエスによって完全であるかのようにみなされます。神は、私たちに義の衣を着せることによって、神の基準に到達したものとみなしてくださいます。それは以前ボロボロの着物を着ていた乞食が、今や神の子として立派な着物をまとっているかのようです。それは、神の一方的な恵みによるもので、私たちの側の努力を一切必要とせず、ただイエス・キリストを信じる信仰によって与えられます。

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