第4回 「聖書入門ーキーワードで読む聖書」
「聖書入門ーキーワードで読む聖書」
第4回 人間(ἂνθρπος、アンスロポス)
「人間と動物の違い」
人間とは一体、どのような存在でしようか。ひとつの答えは、言葉を持っているかどうかです。私たちは、それぞれの母国語や習得した外国語で、同国人や外国人と会話し、考えを共有します。しかし動物は、言葉を持っていなかったとしても、言葉以外の方法によって、コミュニケーションをとっているのではないでしょうか。私の家には家内が飼っている「メフィ」という美人の猫がいますが、ニャオーと泣いたり、尻尾をふったりして、思いを伝えようとします。
また人間と動物の違いは、「考える」ということにあるという人もいます。パスカルの『パンセ』に、「人間は考える葦である」という有名な言葉があります。水辺に咲く葦のように風が吹けば右に左になびいてしまうようなか弱い存在であるけれども、考えることができるという点に人間の尊厳があるというのです。動物は、本能的に行動しますが、人間はじっくり考えて選択しようとします。考えることに人間としての尊厳があるというのです。ですから、上からの命令に盲目的に服従して行動したり、周りの空気に同調することにあくせくしたり、動物のように本能的・衝動的に行動する人は、人間の尊厳を踏みにじっていると言うのです。
またある人は、人間は道具を発明し利用する工作人「ホモ・ファーブル」(homo faber)である点が、動物と異なると主張する人もいます。
それでは、聖書はこの点に関して、なんと言っているのでしょうか。
「霊的存在のとしての人間」
聖書は、人間は神によって、神と交わる霊的な存在として創造されたと語っています。
「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)
大地のちりが肉体的部分を示しているのに対して、「いのちの息」は、霊的な部分を表しています。神は人間に「いのちの息」を吹き込まれたので、人間は、霊的存在となりました。この点が、人間と動物が決定的に異なる点です。動物は、神と交わることは出来ません。神と交わることこそ、人間が霊的に生きている証左です。神との交わりを喪失した人間は、まさに「生きていても死んでいる状態」にあります。
「人間ー上を見て歩む存在」
「人間」のギリシャ語のἂνθρπος、はανα+θορευωの合成語ですが、αναは上を、θορευωを見るを意味しますので、人間は上を見上げて生きる存在なのです。1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故で死亡した歌手に坂本九(1941-1985)がいました。私は大学生の頃、悲しい時、落ち込んだときには、いつも坂本九の「上を向いて歩こう」を口ずさんだことを覚えています。
「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
思い出す 春の日 一人ぼっちの夜」
また彼の歌には「見上げてごらん夜の星を」という歌があります。聖書では、見上げるお方は、創造者である神なのです。内村鑑三は、「一日中一生」のなかで、アンスロポスについて、次のように言っています。
「 キリスト信者は助けを天に仰ぐ。地に求めない。そのすべての希望は、神につながる。人にかかわらない。ゆえにそのならいとして、上を見て、下を見ない。人はもともと上を見る動物である。そのからだの構造が、上を見るようにできている。昔のギリシャ人がアントロポスと呼んだのはその故であるという。そして人が人たるの価値を自覚するに至る時に、人は目を下に向けることを止めて、上に向けるようになる。」(7月24日)
「霊、魂、からだ」
テサロニケの手紙では、人間は「霊、魂、からだ」(Ⅰテサロニケ5:23)によって構成されているとあります。霊は、ギリシャ語で「プリューマ」、魂は「プシュケー」、からだは、「ソーマ」です。魂は、知・情・意という精神活動を担う部分です。一般に、人間は肉体と精神によって構成されるといわれますが、聖書はその上に「霊」―神と交わる部分―を置いています。
「神のかたち(imago Dei)としての人間」
聖書では、人間は「神のかたち」に造られたと言っています。
「神は、人を御自身のかたちとして創造された。神のかたちとして創造し、男と女に彼らを創造された、」(創世記1:27)
それでは「神のかたち」とは一体何でしょうか。それは神が霊であるように、人間も霊的存在として造られたことを意味します。また神が理性的存在であるように、人間も理性的に考えるように創造され、また神が愛であるように、人間も互いに愛し合って生きるように作られ、神が意思を持っておられるように、人間も自由意思を持って行動するように造られました。
「堕落による神のかたちの損傷」
しかし、アダムとエバの堕落によって罪が入り、人類はその罪の影響を受けて、神との交わりが断たれ、神に応答できなくなりました、また人間の理性は曇り、真理を認識できなくなり、また愛の人格は破壊され、自己中心的になり、そこに対立、戦争が生み出されてくるようになりました。つまり、人間の知・情・意思は、悪や罪によって支配されるようになったのです。
しかし、「神のかたち」は、完全に破壊されたわけではありません。その痕跡は残っています。これはとても大事なことです。
「神のかたちの痕跡」
人は神から離れるとむなしくなり、虚無感を感じ、神を意識的かつ無意識的に求めるようになります。パスカルが、人間には「神のかたちをした空洞がある」と書いた通りです。また人間が罪責感を持つのも、人間が道徳的存在として造られたからです。健全な良心を持っている人は、良心の呵責を経験します。人から愛されたい、人を愛したいと思うのも、神が愛であり、神が人間を愛し合って生きるように創造されたからです。
「神に帰ること」
人間が人間として真に生きるのは、神に帰り、神との生ける交わりを回復することが必要です。人間は、霊的存在ですので、神との交わりが回復されてはじめて、人間として生きることができます。キルケゴールというデンマークの哲学者は、人が神との交わりを回復することによって、「真の自己」を回復すると言っています。またロシアの哲学者ベルジェ―エフは、神を否定することは同時に、人間性を破壊することであると主張しています。またアウグスチヌスは、『告白』の中で、「あなた【神】は、私たちをご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憇うまで、安らぎを得ることは出来ないのです。」と述べています。今、神を見失った私たちに神が求めておられるのは、方向転換して、「神に帰りなさい」というメッセージです。神は、わたしたちの心の故郷です。
「仲介者イエス・キリスト」
神はすでに、私たちが神に帰ることができるために、イエス・キリストの十字架を通して、罪の赦しの道を開いてくださいました。罪人である人間は、イエス・キリストを信じる信仰によって、誰でも創造者である神のもとに帰り、真の人間になることができます。聖書は、キリストについて以下のように語っています。
“ キリストは自ら、十字架の上で、
私たちの罪をその身に負われた。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。
その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。
しかし今や、自分のたましいの牧者であり、
監督者である方のもとに帰った。“(ペテロの第一の手紙2:24-25)