第3回 「聖書入門ーキーワードで読む聖書」

神(θεός.テオス)(2023.3.1)

「聖書における神の翻訳の歴史」

神は、聖書ではどのように翻訳されてきたのでしょうか。日本人で神を信じるという方は少なからずおられます。「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行法師(1118-1190)の短歌は、心打つものがあります。しかしその神のイメージは曖昧で漠然としていたり、日本の古来の神観に基ずく場合が一般的です。ここでは聖書の示す神観について考えてみましょう。
1549年にフランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられてから、最初は「テオス」は、「大日」と訳されましたが、あまりも仏教用語に近いということで、その後、「ゼウス」そして「天主」という言葉が使われるようになりました、日本の城壁の「天守閣」は、「天主閣」ともいわれ、初めて天守閣を造ったのは、宣教師たちを保護した織田信長でした。
明治になると、プロテスタントの宣教師たちにより、「上帝」と訳するか「神」と訳するかの論争があり、次第に「上帝」から「神」という語に代わり、定着していき、今日にいたっています。
ここでは、聖書が示す「神」の特徴を、三つの点から考えてみましょう。

 「神は創造主」

第一番目は、神は創造主であるということです。日本人には世界の創造という考えはなく、偶然に進化によって生じたという考えが一般的です。しかし、旧約聖書の冒頭には、「はじめに神が天と地を創造された」と記されてあります。この箇所を読んで感動し、神を信じるようになったのが同志社大学の創設者新島襄(1843-1980)です。彼は、次のように言っています。

 「漢文で簡潔に書かれた聖書に基づく歴史書で神による宇宙の創造という短い物語を読んだときほど、創造主が身近なものとして私の心に迫ってきたことはなかった。私は、私たちが住んでいるこの世界が神の見えざる手によって創造されたのであって、単なる偶然によるものでないことを知った。」

 パウロもまたアテナイの人々に対して、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みになりまん。—–私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです」(使徒の働き17:24,28)と述べています。神は一定の法則をもって世界を創造されたので、科学は神の痕跡を求めて法則を解明しようと努めてきました。宇宙のようなマクロの世界、人間の身体の器官、細胞のようなミクロの世界においてもそこに神の叡知とデザインが余すところなく示されています。
例えば私たちの心臓は、ポンプのようなもので、筋肉の収縮によって血液を全身に送り出しています。動脈を通って酸素や栄養を各臓器に運び、また静脈を通って二酸化炭素やアンモニアなど不要な老廃物や有害物質を回収します。血液の量は、1分間に5リットル、1時間でペットボトル600本の血液を送り出します。心臓は、1分間に70回程度鼓動し、一日に10万回も拍動を続け、8トンの血液を送り出すと言われています。人生80年とすると29億4000万回、眠っていても鼓動し続けるのです。 血液は、血管をとおって流れますが、血管は毛細血管を入れると12万キロメートル、つまり地球を二周半回る長さになります。
こうした心臓が偶然に進化して生じたというより、神が叡知をもって心臓をデザインされ、人間を生かしておられると考えた方が自然ではないでしょうか。 万有引力を発見したニュートン(1643-1727)には下記のような逸話が伝わっています。ニュートンは、機械職人に注文して、太陽系の精巧な模型を作らせました。ある日、無神論者の友人が訪ねて来て、その模型を見て感動し、ニュートンとの会話が始まります。

友人    「実にみごとな模型だね。誰が作ったんだい?」
ニュートン 「誰でもない。」
友人    「おいおい、僕の質問がわからなかったのかな。僕は、誰がこれを作ったのかと聞いたんだよ。」
ニュートン 「それは誰が作ったわけではない。いろいろなものが集まって、たまたまそうなったのさ。」
友人    「人をばかにするものじゃない。誰かが作ったに決まっているだろう。これだけのものを作るとは、かなりの腕前だよ。それは誰かと聞いているんだ。」
ニュートン 「これは、偉大な太陽系を模して作った、単なる模型だ。この模型が設計者もなく、ひとりにできたと言っても、君は信じない。ところが君はふだん、本物の偉大な太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う、いったいどうしたら、そんな不統一な結論になりのかね?」 ニュートンとの会話を通して、友人は創造主の存在を確信したそうです。

「神は唯一である」

第二番目に、神は唯一です。日本人の伝統的な神観は多神教です。日本の神社には、学問の神様を祀った太宰府天満宮、無病息災の神を祀る伏見稲荷大社、縁結びの神を結ぶ出雲大社などがあり、それぞれの神が、お参りする人に現世の御利益を与える役割をもっています。日常に私たちが使う言葉、「野球の神様」、「料理の神様」、「サッカーの神様」、「経営の神様」といった言葉にも、多神教の痕跡があります。
筆者は福岡県に住んでいた時、当時西鉄という球団が使用していた「平和台球場」に何回か足を運んだ経験があります。当時、西鉄の黄金時代でしたが、鉄腕投手稲尾和久(1937-2007)が試合に登場すると、「神様、仏様、稲尾様」というキャッチフレーズが聞こえてくるのです。今で言えば、「神様、仏様、イチロー様」というのでしょうか。神概念が人間のレベルに引き下げられる典型的な事例です。
多神教に共通していることは、その神が、人間や自然界の動植物に超越している神ではなく、まさに神によって創造された人間や動物(被造物)を神として祀っていることです。例えば、徳川家康を神として祀る日光東照宮、豊臣秀吉を神として祀る富国神社、桓武天皇を神として祀る平安神宮、国のために命をすてた戦没者を神として祀る靖国神社などが有名です。創造者である超越的な神と、人間との間に質的な区別、ないし断絶が存在しないのです。
聖書は、「あなたには、私以外に、他の神々があってはならない」(出エジプト20:3)と唯一神を語っています。神以外のものを礼拝することは、偶像崇拝の罪です。
札幌農学校の時に聖書の神を信じた内村鑑三(1861-1930)は、唯一神について次のように言っています。

 「神が一つであり、多数でないことは、私の小さな魂にとり、文字通り、喜ばしきおとずれでした。もはや東西南北の方位にいる四方の神々に、毎朝長い祈りを捧げる必要はなくなりました。道を通りすぎるたびに出会う神社に長い祈りを繰り返すことも、もういらなくなりました。唯一神信仰は、私を新しい人間にしました。それほど、神が一ついう考えは、私に元気を与えてくれました。新しい信仰による精神の自由は、私の心身に健全な影響を及ぼしました。」(『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』

「神は人格である」

第三番目に神は「人格」であることを強調したいと思います。パスカル(1623-1662)は、彼の回心を書き記した「メモリアル」において、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、 哲学者および学者の神ならず」と書き記しています。哲学者の神とは、第一原因とか最終目的とか、抽象的な概念であって、血がかよっていないものですが、聖書の神は、人格を持った神であり、それゆえに人間と人格的に交わることのできる存在です。哲学者の神は死んだ神ですが、聖書の神は生きていて、人間に語りかけ、交わることを望まれる神です。
通常、「人格」とは知・情・意を持っている存在のことを言います。神は全知な方であり、また愛しいつくしむ、そして罪には怒るという感情を持っており、また人間と世界、歴史を導き、救い出そうとする意志を持っておられます。人間は堕落の結果、不完全な知性、誤った感情、誤った道を選択する意思を持つちっぽけな,無力な存在ですが、人格をもっているが故に、神の声に聴き従い、神に帰り、神と交わることができます。そしてとりわけ私たちは、「神の愛」を知ることができます。
聖書は、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)と記しています。神は、ご自分の御子に私たちの罪を負わせ十字架につけるほどまでに、私たち一人一人を愛された神であるというのです。クリスチャンとは、イエスを救い主として信じ、罪赦され、神の愛といのちに生きる者とされている者のことです。

「終わりに」

以上、私たちは、聖書の神について考えてきました。神は存在しないと思っておられる方々、神はいるかもしれないと漠然と思っておられる方々、そして日本の古来の伝統や風習によって神々からの御利益を求めておられる方々、一度、聖書の神について探求されたらいかがでしょうか。新しい発見があると思います。聖書は、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出されます。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)と勧めています。神との出会いこそ私たちの人生を変える機会となります。

参考文献
柳父章「ゴッドは神か上帝か」(岩波現代文庫、2001年)
三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのかーコペルニクスからホーキングまで』(ブルバックス、2018年)

Follow me!

定期集会

前の記事

3月の福音集会
読書会

次の記事

読書会 第6回