第2回「聖書入門―キーワードで読む聖書」

第二回目 「契約(covenant,διαθήκης、ディアセーケー)」(2023.2.1)

「聖書をどのように読むか」

聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻によって構成されています。私たちは、聖書をどのように読んだらいいでしょうか。約2000年前に書かれた古典の書として読まれる方もおられます。あるいは人間がどのように行動すべきかの道徳の書として読まれる方もおられるかもしれません。最初に聖書を読む人が、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイの福音書5章39節)というイエスの言葉に触れると、自分には到底できないと言って、聖書を読むのをやめてしまうこともあるでしょう。あるいは、聖書の中にイエス・キリストの偉大さに触れ、自分もイエスのようになりたいと思われる方もおられると思います。キリスト教は嫌いだけれど、イエスは好きだ、尊敬に値すると考えられる方も、少なからずおられます。キリスト教を徹底して攻撃したニーチェがそうでした。
私たちが聖書を正しく読むためには、それを「契約の書」として読むことがどうしても必要です。このことが理解されていると、聖書が示す「救い」の意味が明確になります。聖書が、新約聖書と旧約聖書と呼ばれるのはそれなりの根拠があります。

 「二種類の契約」

「契約」という言葉自体は、私たちの日常生活に根差すものです。私たちは、家を借りるために売買契約を家主さんと結んだり、就職する時に雇用契約を結びます。自動車を運転している時に、たとえ事故を起こしても自動車保険に入っているという安心感があり、保険会社と契約します。私たちの住んでいる社会は「契約社会」であり、契約に基づく契約者の権利・義務がはっきりと明記されています。これは、契約の当事者が同じ平等の立場で取り結ぶ「契約」です。相手方と交渉して、自分に有利な条件に変えることもできます。
しかし聖書が示す「契約」は、これとは異なります。つまり同じ立場で行われる契約ではなく、神が人間に対して一方的に示す契約であって、人間はそれを受け容れるか、拒むかの二者択一しかありません。聖書の「契約」は、神の主権と神の一方的な恵みを現わしています。このことを、「契約」のギリシャ語に即して考えてみましょう。

「ディアセーケー」 

新約聖書の「契約」のギリシャ語は(διαθήκης、ディアセーケー)です。この言葉は、新約聖書に33回、特にへブル書では17回、用いられています。この「ディアセーケー」は、へブル書の9章16節と17節には「遺言」と訳されてあります。実は、「ディアセーケー」には、財産の処分とか、遺言の意味があります。当時ギリシャ語世界では、人と人との間で結ばれる「契約」を表す言葉としてσυνθήκη(シュンセーケー)という言葉が用いられていました。しかし聖書記者は、新約聖書の「契約」を意味する言葉として、シュンセーケーではなく、一方的な契約を意味するディアセーケーという言葉をあてたのです。聖書の「契約」は神が一方的にその条件を定め、それを人間に呈示するように、遺言を受ける人は、遺言者が作成した遺言の内容を変更したり、自ら作成することは出来ず、遺言を受け容れるか、拒否するかのどちらかしかないのです。織田昭著『新約聖書ギリシャ語辞典』においては、「ディアセーケー」の意味として、「一方の主体的裁量や約束を他方が受け入れ服する形での裁定と受諾の関係」と説明されています。
これは、「新約聖書」という英語の言葉にNew Testament という言葉が用いられている 理由でもあります。なぜnew covenant ないしnew contractのではないでしようか。それは、聖書は神が人間に対して一方的に恵みによって示したものであるTestamentという言葉に聖書の意味内容がはっきりと示されているからです。

「新約聖書の契約の意味」 

それでは、神が人間的に恵みによって制定された新らしい契約とは一体何でしょうか。古い契約が更新されて新しい契約が示されました。聖書が私たちに示す「救い」=「罪の赦し」の契約が宣言されたのです。神が、私たちに示された契約は、イエス・キリストの血が十字架で流されることによって建てられ、私たちがそれを受け入れることによって成立する契約です。。
イエス・キリストは「最後の晩餐」において、「これは私の契約の血です。多くの人に流されるものです。」(マルコ14:24)と語られました。またコリント第一の手紙には、「この杯は、私の血による新しい契約です。」というイエスの言葉が示されています。
新改訳聖書2017で「ディアセーケー」というギリシャ語が「遺言」と訳されているへブル書9章16、17節には、「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力をもちません」と記されてあります。神の救いの契約は、イエス・キリストの十字架の死によって、はじめて効力を持つのです。つまり神がたてられた新しい救いの計画は、神の子イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架で血を流し、その犠牲の血を見て、神が私たちの罪を赦し、イエスを信じる者に永遠のいのちを与えてくださるという約束です。

「契約における条件」 

それでは、神の一方的な恵みの救いを受ける条件とは一体何でしょうか。神は、私たちに救いの条件として、何かを行為することを望んでおられません。滝に打たれたり、断食して禁欲生活をしたり、人を助けるボランティアをしたとしても、罪が清められ、赦されるわけではありません。私たちに求められていることは、ただイエスの血が私たちの罪を赦すために十字架上で流され、三日後に復活されたことを信じることだけです。これを、「信仰義認」(キリストを信じる信仰によって神の前に義とされ、受け入れられること)と言います。契約ですから、神の恵みを拒むこともできます。しかしそれは、滅びの道を歩み続けることでもあります。神が恵みによって定められた契約に私たちがどのように反応するか、そこから人間の責任が生じてきます。信仰とは、神の圧倒的な恵みに応答することです。
私たちが心に刻むべきことは、神がご自身の一人子イエス・キリストを通して下された契約に忠実であり、決してその約束を反故にされないということです。聖書の神は、粗暴で専制君主のような神ではありません。神は、ご自身が立てられた契約に最後まで忠実であられる方です。人が、神は契約を履行されないのではないかと疑ってしまったら、契約は成り立ちません。聖書の契約や約束は、神に対する信頼があって、初めて自分の上に実現します。

「契約の効力の期間」

よく聞く質問ですが、イエス・キリストの十字架の出来事は、今から2000年以上のことなので、現代に生きる私たちには関係ないというものです。しかし契約の効力について考えてみてください。人と人との間の契約も、一度契約行為が行われたら、それを解消しなければ、いつまでも続きます。契約は、それが立てられた時だけ効力を持つのではありません。神の私たちに対する契約もそうです。イエス・キリストの十字架の贖いを心から信じる者は罪赦され、救われるという神の約束は最後の審判が行われるイエス・キリストの再臨まで続くのです。聖書では、「永遠の契約」と記されてあります。
日本国憲法は1946年10月に制定され、1947年5月3日に施行されましたが、それ以来2023年に至るまで、約76年間、一度も改正されず、世代を超えて、日本国民に効力を持ち続けています。 神がイエス・キリストの血によって打ち立てられた新しい契約は、今でも有効であり、それは、時間と空間を超えて全世界の人々に向けられています。今を生きる私たち一人一人に向けられています。、是非、キリストの血の犠牲によって打ち立てられた神の恵みの契約に応答し、イエス・キリストをあなたの救い主として受け入れてくださるようにお祈りしています。

“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子【イエス・キリスト】を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”(ヨハネの福音書3:16)

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