第1回「聖書入門―キーワードで読む聖書」
第一回 クリスチャン
(christian, Χριστιανούς,クリスティアヌス)(2023.2.1)
「クリスチャンとは何か」
クリスチャンとは一体どのような存在でしょうか。クリスチャンとクリスチャンではない人の違いとは一体何でしょうか。多くの人は、洗礼(バプテスマ)を受けているかどうかの違いと考えられると思います。洗礼が、クリスチャンかそうではないかの試金石だと思われるのです。しかし、聖書は必ずしもそのように語ってはいません。洗礼を受けても、心からイエスを救い主として信じていなければ、クリスチャンとはいえません。洗礼を受けて、救われるわけではなく、逆にイエスを信じ、救われた人が洗礼を受けることができます。ここでは、クリスチャンといわれるために必要な二つのことについて考えてみたいと思います。
「信仰告白の必要性」
第一点は、イエスに対する信仰告白です。信じて、告白することです。クリスチャンになるに際して、自分が信じている方を神と人の前に告白することは重要な意味を持っています。聖書には、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義とみとめられ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9,10)と記されてあります。
それでは、何を信仰告白したらいいのでしょうか。そのことの答えとして、初代教会のクリスチャンたちが、迫害の中で自分たちがクリスチャンであることを示すために用いていた暗号の「魚(イクトウス)」の意味について考えてみたいと思います。
「イクトゥス(魚)」
初代教会においては、キリスト教に対する迫害や偏見が強い中で、クリスチャンと名 のることは危険でした。そこで彼らは、クリスチャン同志の暗号として、自分がクリスチャンであることを示すために、「魚」の絵を地面に書きました。
ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチ(1846-1916)の小説『クォ・ヴァディス』には何度もその光景がでてきます。それではなぜ、魚(ギリシャ語でイクトゥス)でしょうか。『クォ・ヴァディス』の一節を紹介しましょう。これは、ローマの貴族ペテロニウスと哲学者を自称するキロンとの会話の部分です。
キロン 「あの女[リギア]は、キリスト教徒です。」「ご主人様、次の文章をギリシャ語で云って御覧なさい。イエス・キリスト、神の子、救い主」
ペテロニウス 「よろしい。では言おう。イエースース クリストス テウー ヒュイオス ソーテール、それがどうした。」
キロン 「今度は、そこにある単語の最初の字を一つづつ取って合わせて、単語を一つ造ってください。」
ペテロニウス 「イクトゥス」(ギリシャ語で魚)
キロン 「それです。魚がキリスト教のシンボルになったわけは。」
(Iはイエス、Xはキリスト、Θは神、Υは子、Σは救い主のギリシャ語の頭文字)
つまり、クリスチャンとは、「イクトゥス」、つまりイエスは、キリストであり、神の子であり、救い主であることを信じ、告白する者という意味があります。
イエスは、旧約聖書が預言されていたキリスト(メシア)です。またイエスは、人間であると同時に、全く罪のない神の子です。神そのものです。そして私たちの罪を負って十字架にかけられ、よみがえられた救い主です。 イエス・キリストの十字架の犠牲がなければ、罪の赦しの道は開かれませんでした。
皆さんは、下の写真に見られるように後ろに魚の絵が描かれた車やスクーターをみられたことがあるでしょうか。それは、自分はクリスチャンであるという意思表示でもあります。
「キリストに従う者」
ところで、クリスチャンにはもう一つの意味が込められています。信仰は、おのずと行動をもたらします。信仰無き行動は無益ですが、行動無き信仰も不十分です。信仰は、イエス・キリストを主として、従っていきたいという思いを私たちに引き起こします。 洗礼(バプテスマ)とは、古い我に死に、新しくキリストにあって生きるという決意表明でもあります。
新約聖書の「使徒の働き」は、「弟子たちは、アンティオケアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(11:26)と記されてあります。アンティオケアは、エルサレムと異なり、異邦人伝道の中心地であり、使徒パウロの三回にわたる伝道旅行は、アンティオケアから始まっています。日本語で「キリスト者」と訳されている箇所は、英語の聖書のNIV(new international version)では、christians,、ルター訳のドイツ語聖書でも、Christenが使われています。ギリシャ語の原語は、Χριστιανούς(クリスティアヌス)です。ここでは、クリスチャンとはイエスの弟子で、イエスに自分の生涯をかけて従っていく者を意味しています。従うという場合、他の宗教のように釈迦が遺した仏典、ムハンマドが遺したクルアーン(コーラン)、孔子が遺した論語といった書かれた教典に従うのではなく、復活され、今も生きておられるイエス・キリストに従うところに、聖書的信仰の核心があります。
「クリスチャンとはーまとめ」
最後に、クリスチャンとは、何であるかをまとめてみましょう。クリスチャンであるかどうかは、洗礼を受けたか、親がクリスチャンの家に生まれたとか、あるいは教会に出席しているかどうかには全く関係がありません。クリスチャンとは、イエスが、キリストであり、神の子として全く罪がないお方であるにもかかかわらず、私たちの罪を負って十字架にかけられ、三日後に復活された救い主であることを心で信じ、「告白」することです。洗礼(バプテスマ)は、その信仰告白を公に表すために神によって定められた尊い儀式です。しかし、洗礼という儀式に特別の効力を与えて、洗礼を受けることによって救われるという考えは、聖書に反するものです。
そしてクリスチャンは、信じただけではなく、キリストの愛に対する応答として、自分の生涯を賭けて、復活されたイエスに従っていく責任と特権が与えられています。つまりクリスチャンは、イエス・キリストの弟子(μαθητής、マセテース)なのです。そしてイエス・キリストは、私たちの主権者、主(κύριος、キュリオス)であり、私たちが従うにあまりあるすばらしいお方です。