聖書メッセージ73|「日本を愛したメリル・ヴォーリズ(1880-1966)」
日本を愛したメリル・ヴォーリズ(1880-1966)
ヴォーリズという名前を皆さんはご存知でしょうか。知らない方も多いと思いますが、建築に興味がある方は、ヴォーリズの設計による有名な建物をご存じかと思います。ヴォーリズが設計した建物は、大同生命ビル、神戸女学院、関西学院、国際基督教大学など千あまりに及んでいます。常備薬に関心のある方は、メンタームを買われたことがあるのではないでしょうか。また病院関係者の方は、結核患者を収容するために始まった近江療養院(サナトリウム、現在のヴォーリズ記念病院)を知っておられると思います。加えて、老健施設、ホスピスも建設され、今日に至っています。私の母も一時ヴォーリズの老健施設にお世話になったことがあります。またヴォーリスズ学園として幼稚園、中学校、高等学校が存在します。こうした現在ある近江兄弟社の様々な活動、設計・建築、薬の販売、医療そして教育活動は、ウイリアム・メリル・ヴォーリズによって始められ、100年以上も続けられ、今日に至っています。近江八幡を「神の国」にするのが、ヴォーリズの願いでした。以下、ヴォーリスの自叙伝の『失敗者の自叙伝』に即して、ヴォーリズの生涯について紹介したいと思います。
「ヴォーリズの宣教活動」
ヴォーリズが日本に来た動機は、イエス・キリストの福音を日本人に伝えるためでした。そしてこの情熱は、ヴォーリズの生涯を通して変わりませんでした。そして彼の建築・医療・薬品販売・教育事業の真の目的は、多くの人々にキリストを伝えたいという彼の熱心な福音宣教にありました。
ヴォーリズは、コロラド大学に進学し、在学中にカナダのトロントの「海外宣教学生ボランティア運動」の大会に参加し、中国への宣教師ハワード・テーラー女史の話を聞いてキリストの招きを体験し、海外宣教を決意します。彼は、その時のことを、以下のように回想しています。
「ある瞬間、その講師の顔はキリストの顔に変わり、キリスト御自身が、壇上からその愛のまなざしを以って、私の心を刺し通し、私に、『お前はどうするつもりなのか』と尋ねていらっしゃるように感ぜられました。」
彼は、アメリカのカンザス州のレブンワースの郊外に父ジョン・ヴォーリズ、母ジュリア・ヴォーリズの長男として生まれますが、母は生まれてくる子供を宣教師にしようと熱心に祈っていました。
「伝道者 メリル・ヴォーリズの特徴」
メリル・ヴォーリズの伝道活動の第一の特徴は、米国のミッション(伝道団体)から派遣された宣教師としてではなく、いかなる財政的な後ろ盾もない一介のクリスチャンとして、ただ神の使命を受けて極東の地日本にやってきたことです。彼は、1905年1月に単身日本に来て、近江八幡の「滋賀県立商業学校」(現在の県立八幡商業学校)の英語教師として働き始め、家でバイブルクラスを開いて福音を伝え始めます。
第二の特徴は、彼は按手礼を受けた牧師としてではなく、一介の平信徒として聖書を語ったことです。牧師、ないし宣教師としての肩書きを誇示して聖書を語るのではなく、キリストを愛する信仰に促されて、魂を愛して、福音を語るのです。
第三の特徴として、彼が伝道地を選ぶ際に基準としたことは、「今まで宣教師の行ったことのない、今後も海外伝道団が手をつけそうもない所に行くことでした。」それが、滋賀県の近江八幡でした。
第四の特徴として、彼が、設計・建築や薬品販売などで儲けた利益を伝道活動に一切、つぎ込んだことです。彼自身は自分の財産を持たず、質素な貧しい生活を送りました。
そして第五の特徴として、彼が日本人と日本を心から愛したことでした。外国の宣教師が傲慢で、日本人を見下しているとして宣教師に対して強い抵抗感を示していた内村鑑三も、ヴォーリズの著書『吾家の設計」(1923年)に序文を送り、以下のように述べています。
「君は日本において独力で教化事業に従事しつつあります。何人でも近江八幡に 行って彼の伝道ならびに慈善事業を見る者は、その目的の遠大にして基礎の確実なのに驚かざるを得ません。——君の如き人は、如何なることが起こっても日本を去らないと思います。なぜならば彼は自国同様に日本を愛し、また彼が日本に来たりしは、自ら求めてきたりしにあらず、神に遣わされて来たりしと固く信じるからであります。ヴォーリズ君の持つような精神を持って、また君がとるような方法を持ってするならば、いかなる外国人といえども、日本に留まって日本の信頼を受けざるを得ません。」
「八幡商業学校」
彼が 日本の近江八幡に来たのは、 日本が日露戦争を戦っている時であり、24歳の時でした。彼は、近江八幡の「滋賀県立商業学校」の英語の教師として働き始めます。
また彼は学生のためにバイブルクラスを開き、聖書を伝えます。ヴォーリズとは、八幡商業の他にも、膳所中学(現在に膳所高)や彦根中学(現在の彦根東高)でもバイブルクラスを始め、多くの生徒が集いました。八幡商業構内では、学校内のほうぼうで賛美歌の合唱が聞こえるようになり、多くの学生が小型の聖書と賛美歌を制服のポケットに入れて登校したそうです。生徒の中には、後にヴォーリズの片腕ととなる吉田悦蔵や村田浩一郎などイエス・キリストを信じ、クリスチャンになるものが多数起こされてきます。
そういう高揚した状況の中で、クリスチャン学生に対して、キリスト教に反対する生徒たちから制裁が加えられるようになりました。吉田悦蔵は、「キリストとヴォーリズ先生は、どんなことがあっても棄てられない。死んでも。」と覚悟して、「神さま、私を殴ろうとしているものたちの心を静めて、こんなことをしない人にしてやってください。そしてこの者たちの過ちをゆるしてやってください。」と祈りました。またバイブル・クラスの生徒たちも、反対する者の救いのために祈った結果、迫害していたクリスチャン嫌いの生徒からも、自分の罪を悔い改め、イエスを信じる人々が起こされてきました。しかし、キリスト教が広まるのを警戒した仏教寺院や仏教徒による圧力は日増しに強くなり、ヴォーリズは1907年3月に八幡商学校を解雇されます。解雇状には以下のように記されてありました。
「ウイリアム・メレル・ヴォーリズは、西暦1905年2月より滋賀県立商業学校において英語科の教員であった、その教授ぶりと、学生の統治に関することは全然満足するべきものであった。同氏が解職されたのは、県民の反対意思により、すなわち聖書を教えて、学生たちをキリスト教に至るように感化したる事を持って県民の大部分たる仏教徒諸君の反対意思により解職したのであります。」
彼が近江八幡に来てから解職される約2年間の期間に、約31名の生徒がイエス・キリストを救い主として信じて、バプテスマを受けました。ヴォーリズは、「2年前に私が日本に上陸当初、東京の宣教師が、滋賀県は福音宣教の不可能な土地であるから、もし二年間に一人でも受洗者が出たら、奇蹟であると予言したことを思いあわせて、感激に堪えない。」と述べています。ある宣教師がヴォーリズに、どうしてそのような働きができたのかと聞いた時に、彼は、「その説明は一句で足ります。生徒一人一人を弟のように愛することです。」と答えています。彼は、福音を伝える際に、新しく生まれることを強調しますが、それは、人間の働きではなく聖霊を通しての神の働きであることを確信していました。ヴォーリズ自身、自らを神に捧げた土の器にすぎない事を自覚していました。
ヴォーリズが解雇されたことが、彼が建築事業、メンソレータムの販売事業、医療事業、そして教育事業を始めるきっかけとなりました。しかし、彼の生涯に一貫していたのは、イエスの十字架の福音をもっと多くの人々に伝えたいという救霊の思いでした。
「ガリラヤ丸での伝道」
彼は、1914年に琵琶湖に電動船を浮かべて福音を伝えるために、ガリラヤ丸を活用します。このガリラヤ丸の働きによって、琵琶湖の北西部に福音が伝わり、堅田や今津でキリスト教の伝道所が形成されていきました。ポンポンポンというエンジンの響きを聞きつけて、村の人々がいつも湖辺に集まってきたそうです。ヴォーリスは、イエスがガリラヤ湖で弟子たちと一緒に船で対岸に行かれて伝道し、多くの群衆が集まった来たことを念頭に置いていました。以前、琵琶湖博物館でイスラエルのガリラヤ湖と滋賀県の琵琶湖を比較した展示を見たことがあります。ガリラヤ湖は、ヘブル語で「キネレテ湖」と言いますが、これは「竪琴」を意味するキノールに由来しています。
「ヴォーリズの結婚」
彼は、1919年6月39歳の時に、3歳半年下の華族である一柳満喜子(ひとつやなぎまきこ,1884- 1969)というクリスチャン女性と結婚します。彼女は、ペンシルバニア州にある名門女子大学のプリシモアカレッジに留学していますが、そこは津田梅子(津田塾大学創設者)や河井道(恵泉女学園創立者)も通っていた大学です。実はヴォーリスと満喜子の結婚には両家からも強い反対がありましたが、満喜子の兄恵三の義母、つまり広岡浅子(1849〜1919)が、「信仰があれば、如何なる困難にも乗り越えられる」と賛同したことで、結婚へ道が開かれました。広岡浅子は、2015〜2016年で放映されたNHKの朝のドラマ「あさが来た」の主人公で、晩年クリスチャンになった実業家です。
ヴォーリズは、米国との関係が悪化し、戦争に突入する前に、日本を去って米国に帰国するか、日本に留まり続けるかの決断を迫られます。彼は、日本に留まることを決意し、1941年1月日本に帰化し、一柳米来留と改姓します。米来留は、米国から来て日本に留まるという意味です。
日本人を愛し、日本人女性と結婚し、日本に永住する事を希望するヴォーリズの選択でした。当時敵性外国人と烙印を押され、多くの米国人宣教師が帰国を余儀なくされている状況において、異例の勇気ある決断でした。
「ヴォーリズの死」
1957 年ヴォーリズはクモ膜下出血に倒れ、それ以後の7年間は病床ですごし、1958年「近江八幡名誉市民第一号」の栄誉を受けました。彼が召天したのは1966年5月7日です。享年83歳でした。葬儀は近江兄弟社と近江八幡市民の共同葬儀として執り行なわれました。ヴォーリズが近江八幡市民によっていかに愛されていたかを示しています。
ヴォーリズは、日本に来た宣教師の誰よりも成功した独立伝道者でした。しかし彼が晩年書いた自叙伝のタイトルは『失敗者の自叙伝』です。この本は彼が謙遜を装って書いているのではなく、彼の真実な心の思いの表れでした。実際、彼には多くの失敗がありました。しかし神は、ヴォーリズの失敗を恵みに変えてくださったのです。彼は、次のように言っています。
「失敗は、神が私たちを謙虚にするため与え給うものであった。神は、私たちの能力や知識が、事を成就するためではなくて、私たちが神の器となりきる時、私たちを通して働き給う聖霊が、これを成し給うという事を知らしめようとの、ご計画である。そして私たちの計画にまさる結果を、常に与え給うのである。」
「ヴォーリズの遺産」
ヴォーリズの事業は、ヴォーリズ建築、メンターム事業、医療・福祉活動、教育事業の分野で継承され、発展しています。しかしそうした事業の根底をなしていたのは、イエス・キリストの十字架と復活という福音の精神でした。ヴォーリズは、アメリカからはるばる福音を伝えるためにやってきた独立伝道者でした。
数ヶ月前、ある若者から大津キリスト集会に、日曜日の午後からの伝道集会に出たいという電話がありました。来られたので話をすると、ヴォーリズ学園で学んだ聖書のことが忘れられず、今も聖書を読んでおり、もっと聖書を通して、イエス・キリスを知りたいということでした。私はそれを聞いて、今天国でヴォーリズは本当に喜んでいるのではないかと思いました。日露戦争の時に日本にやってきた時の彼の志は、約120年経過した今日においても、実を結び続けていることを思わずにはおられません。
「聖書のことば」
最後にヴォーリズとが、最も愛し、彼の福音宣教や教育・建築・医療事業の原動力となった聖書のことばを紹介します。
「まず神の国と神の義を求めなさい。これらのものは、
すべて、それに加えて与えられます。」(マタイの福音書6:33)
参考文献
一柳米来留『失敗者の自叙伝』(近江兄弟社、令和3年)