聖書メッセージ49|森永太一郎(1865-1937)と聖書

森永太一郎(1865-1937)と聖書

―我、罪人のかしらなり―


「森永キャラメルのエンジェル・マーク」

私が少年の頃、よく森永製菓のキャラメルを好んで買って、食べたことを懐かしく思い起こします。そこにエンジェルマークが貼ってありましたが、なぜ天使なのか当時はわかりませんでした。後になって森永製菓の創業者である森永太一郎がクリスチャンであることを知って、納得した次第です。以下、なぜ太一郎がクリスチャンになったかを彼の書いた『懺悔録』や『信仰実験談』に即して、紹介したいと思います。

「森永太一郎ー渡米する前」

森永太一郎は、陶器問屋をしていた父常次郎と母キクの長男として佐賀県の伊万里市に生まれます。父が病死し、母も再婚で嫁いでしまったので、孤児となり、親戚の家を転々とする孤独な生活を送ります。叔父の陶器問屋で陶器を販売しますが、倒産したため、債務の返済のために、陶器を外国で売却する目的をもって1888年に妻と長女を日本に残して渡米します。

「森永太一郎と聖書」

太一郎は、米国に行って陶器を販売しようとしますが、失敗します。そのような中で、菓子製造の技術を取得することを思い立ちますが、日本人であるがゆえに、差別されたりして、下積みの、苦しい、どん底の日々を過ごします。そのような時に太一郎は、親切な老婦人から声をかけられます。太一郎が、聖書と最初に出会うきっかけとなったのは、この老婦人との出会いでした。

彼は聖書をどのように読んだのでしょうか。『懺悔録』から紹介します。彼は、最初はキリスト教を忌み嫌っていましたが、老婦人の敬虔な生活を見て、聖書を読んでみようと思うようになります。彼は、後に「わたしはわたしに聖書を調べる心を起こさせた神に感謝する。そして世 の人々にも聖書を調べる心を起こされるように祈る、食わず嫌いは永遠の損失である」と述べています。

太一郎は、マタイの福音書から読み始めますが、一章のイエス・キリストの系図は全く理解できませんでした。聖書のイエスの教えには感動すると同時に、道徳的基準が高いため、自分の欠点を痛感させられ、煩悶します。わからないところは、日本人教会に行って、牧師やクリスチャンに質問します。彼は、マタイから始めて、マルコ、ルカの福音書と読み進めていき、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているかがわからないのです。」(ルカの福音書23:34)というイエスの十字架上の祈りに感動します。

次に使徒の働きを読み、2章のペンテコステ(聖霊降臨)において、イエスが十字架にかかる時は、イエスを否み、見捨てたペテロが、全く別人となって、イエスがキリストであることを大胆に証ししている姿に驚きます。キリストは、これほどまでに人を変えることができるのかと感動するのです。そして彼の心を最も激しく揺り動かしたのは、使徒の働き6章に記されてあるステファノの殉教のことば、つまり、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」( 使徒の働き 6:60)いう祈りでした。彼は、室内で神の前に跪いて、「もし、キリスト教徒の信じている神が活ける神であるならば、活ける神であることをわたしに知らせてください、またキリスト信者の信じている救い主イエス・キリストが今も活ける救い主ならば、活ける主であることを知らしてください」と祈りました。

この祈りに対する神の答えとして、太一郎は、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、自分の罪が赦され、永遠の命が与えられていること、同時に、自分の名前が天にあるいのちの書に名が記されていることを確信することができました。そして彼は、創造主である神を礼拝するだけではなく、神を父と呼ぶことができる喜びをあらわにします。それは、太一郎が孤児だったので、それだけ真の父を見出した時の喜びが大きかったのだろうと思います。彼の言葉を引用します。

「私は肉体の父の顔を知らない。けれども永遠の父なる神が天にいますことを明ら
かに示された時には、室内でひとり飛び立って喜んだ。アア、何たる幸福ぞ。」
また彼は、「孤児ほど世に不幸なものはない。されど、今は神のあわれみによって永遠の父をもっている。すなわち、『わたしは、あなたを捨てて、孤児にはしません。」(ヨハネの福音書14:18)と主が言われた通りである。」と書き記しています。

そこで太一郎は、札幌農学校の内村鑑三や新渡戸稲造にもバプテスマ(洗礼)を施し、当時夫人の病気で米国に一時帰国していたメリマン・ハリス(1846-1921)宣教師から1890年にバプテスマを受けます。太一郎24歳の時です。そして彼はまず、日本での一切の借金を苦労して返済します。そしてだまし取った陶器に関しては、謝罪状を書いて、賠償金を支払います。
その後彼は、郷里の親戚に福音を伝えるために、一時帰国しますが、相手にしてもらえないどころか、迫害を受け、養父母からは、勘当されてしまいます。米国にいる間、妻子を顧みなかったという批判もうけます。

「耶蘇のお菓子屋さん」

太一郎、は落胆して再度米国に行き、苦労して菓子製造を学び、1899年、35歳の時に帰国します。彼は、帰国して屋台車の箱にお菓子を入れ、漆の板に「キリスト・イエスは罪人を救うためにに世に来られた」(1テモテ1:15)という聖句と「正義は国を高め 、罪は国民をはずかしめる」(箴言14:34)いう聖句を書きつけて行商して回ります。行商しながら、福音を説く太一郎は、「耶蘇の菓子屋」と呼ばれるようになります。彼は森永西洋菓子製造所(現森永製菓の前身)を設立し、さまざまな苦難を経て、マシユマロ、キャンディ、チョコレート、そして、キャラメルなどのお菓子が飛ぶように売れて大成功を博します。また宮内庁御用達先にも選ばれます。

「信仰から離れる」

彼は、日本に帰国するときに同じ教会の高齢のクリスチャンから、「日本に帰ったら主の名によって集まる教会に必ず集まって兄弟姉妹との交わりをせられよ、単独で信仰の孤立は危ない、サタンのとりこになるおそれがある」と涙ながらの忠告を受けていました。彼は後日この時のことを回想して、「ああ!! この忠告に心をとめなかったことが30年間、一度も教会に足を踏み入れず、サタンの罠にかかって堕落し、神に背いた生涯の月日を送ることとなったのである」と悔やんでいます。

彼は、菓子製造と販売に全精力を注ぎ、「十年間、1日に4時間以上、床に入って寝れないくらい仕事に忙殺された」と述べています。事業に成功したことが彼にとって誘惑となります。彼は傲慢になり、神への感謝も忘れてしまい、生活も荒れるようになります。料亭通いが頻繁となり、飲酒に溺れて、不倫の罪を犯し、堕落した生活を送るようになります。彼の父も酒が原因で早死にし、彼も酒豪家の家系であったので、酒のとりことなってしまったのです。聖書を読んでも、「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。」(ヤコブ書2:26)という聖句が心に突き刺さり、良心の呵責に苛まされる生活が実に30年も続くのです。そして自分がクリスチャンであることを知られることを恐れ、隠すようになります。彼は、聖書を読んでも良心の呵責を覚え、苦しくなるので、聖書も信仰も投げ捨てようと思いますが、そのたびにいつも「あなたの名は天にあるいのちの書に名が記されている」とい天からの声を聞き、思いとどまるのです。

「信仰の回復」

太一郎の信仰が回復するきっかけとなったのは、愛妻の死でした。先妻は1916年に死去していたので、彼は、翌年青木タカと再婚していましたが、愛妻タカが1930年に死去したことは、彼を打ちのめしたのです。このことについて彼は次のように述壊しています。太一郎66歳の時でした。
「私は妻をとられまして、自分の不信仰のために主イエスを数限りなく十字架につ
けた罪に対して、永遠の審判にならない前に、今ここで審判を下されたのです。
今にしてキリストに帰らなければもはや帰る機会はない。これは、どうしても帰
れという神の大いなる摂理の大鉄槌である。ここにおいて久し振りで、『主よ、
身もとに近づかん』という賛美歌が心の底から浮かび出たのです。」
このように愛妻の死は、 太一郎にとって神に帰り、信仰が回復される恵みの時となったのです。

「私は罪人の頭です」

これ以降、太一郎の生活は一変します。特に1935年に社長をやめてからは、福音を伝えることに専念して、全国を行脚しました。彼は、教会などで福音を語るときは、必ず、「私は罪人の頭です」という聖書の言葉から福音を語ったと言われています。
「私は罪人の頭です」はパウロの言葉です。全文を紹介します。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られたということばは真実であり、
そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1テモテ
1:15)

パウロは、信者になる以前に、クリスチャンを迫害し、見つけ出しては投獄し、死に至らしめていた人物です。クリスチャンにとってはパウロは恐るべき存在でした。そのパウロは、ダマスコ途上で、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞き、地面に打ち倒されます。パウロは、後になって、自分が神に背を向け、クリスチャンを迫害していた罪を思い出すたびに、「自分は罪人のかしらです。」と告白せざるを得ませんでした。同時に自分のような罪人を救うために、イエス・キリストが地上に来られ、全ての罪を負って、十字架につけられたことに感謝せざるを得ませんでした。このような大悪人が救われるならば、他のどんな人も救われないはずはないと、パウロは心底から思ったのです。
実は太一郎も、パウロと同じ思いでした。彼は、一旦神を信じながらも、信仰を離れ、キリストに背を向け、酒と女に溺れた自分の醜い姿を悔い改めると同時に、このような罪人のかしらを赦してくださる、神の溢れるばかりの恩寵に感謝せざるを得ませんでした。そしてそれ以降、キリストの愛と赦しを伝えることに全精力を注ぐのです。

「賛美歌369番」

太一郎の正直な証は、聴衆に深い感銘を与えたと言われています。太一郎の聖書メッセージは必ず、最後に讃美歌集369番で締めくくられました。一番だけ紹介します。

われつみびとの かしらなれども
主はわがために いのちを捨てて
つきぬいのちを あたえたまえり

「 森永太一郎の死」

『懺悔録』の終わりには、「地上で生を保たれているものも主のため、死ぬるも我が益なり、主のみ旨のままに僕を用いたまえ。」と記されてあります。森永太一郎は、1937年9月24日に93歳の生涯を終えて天に召され、28日に青山学院の礼拝堂で行われた告別式では実に八千余名の人が参列して、太一郎の死を悼んだと言われています。

「関東大震災」

森永製菓は、「正直は最良の策なり」という商法によって、信頼を勝ち得、発展していきます。また1923年の関東大震災の時には、太一郎は森永の経営陣の反対を押し切って、ミルク、キャラメル、ビスケットなどを損失覚悟で大量にたくさんの被災者に配りました。太一郎の事業は、ただ儲けることだけを目的としていたのではなく、民の生活の向上をも念願としていました。

【参考文献】
『森永太一郎氏 信仰実験談』( 教文館、1932年)
『森永太一郎翁の体験談ー懺悔録』(日本自由メソジスト教会出版局、1936年)

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