聖書メッセージ44|高山右近(1552~1615)―時代に抗して生きるキリシタン

高山右近(1552~1615)―時代に抗して生きるキリシタン

「高山右近のキリスト教との出会い」

 日本でキリスト教が最初に伝来したのが、1549年スペインのイエズス会士のフランシスコ・ザビエル(1506-1552)が鹿児島に到着してからです。山口でザビエルの話を聞き、信仰を持ったのが、盲目の琵琶法師ロレンソ(1526-1592)でした。日本におけるキリシタン伝道は、このロレンソの活躍なくしては進展しませんでした。彼は仏教の知識も深かったので、比叡山に行き、高僧と議論して、負けませんでした。1563年右近の父飛騨守は、奈良で、ロレンソの話を聞き、信仰を持ち、宣教師ガスパル・ヴィレラ(1525-1572)から洗礼を受け、ダリオという洗礼名を授かりました。父飛騨守の妻の洗礼名はマリアです。1564年、飛騨守に招かれたロレンソの説教によって、右近も12歳の時、他の家臣と共に、ロレンソから洗礼を受け、キリシタンとなります。洗礼名は「ジュスト」です。彼は、いわば、キリシタン二世でした。この時は、いわば父親に言われて仕方がなく洗礼を受けましたが、大きな回心や生活の変化があったわけではありませんでした。約10年後の1573年、摂津国高槻城主の息子の和田惟長と切りあい、負傷して病床にふせっている時に、自分の罪を悔い改め、真に回心し,自覚的に救い主キリストに従うようになったと思われます。彼の病気は奇跡的に回復し、その後の右近は高槻城主として、「今までの彼とは思えないほどの、完成された人格として、領民の前に、教会の前にその姿を現すのです。」(海老沢、44頁)彼の大病からの回復は、宣教師にとって、これから右近が神の器として用いられる転換点と思われたのです。ルイス・フロイス、フラシスコ・カプラル、ロレンソが定期的に右近が城主をしている高槻城を訪問し、聖書を語ったことにより、右近の信仰も見る見るうちに成長し、高槻の教会も飛躍的に宣教が進んでいきます。右近は、勉強熱心で、ヒエロニムス訳のラテン語聖書を学んだり、「コンテムツス・ムンジ」(『キリストに倣いて』)を熱心に読んだといわれています。以下、右近の信仰を示す二つのエピソードを紹介し、右近が戦国時代、そして徳川幕藩体制の初期のキリスト教迫害をどのように生きたかを紹介することにします。

 「豊臣秀吉の伴天連追放令」

右近は、織田信長に仕えていましたが、信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、手柄を立て、高槻4万石、そして播磨国明石7万石の城主にとりたてられます。彼は、キリシタン大名として、キリスト信仰を同じ大名たちに伝え、小西行長、黒田官兵衛、蒲生氏郷たちがキリシタンとなります。細川ガラシャの夫の細川忠興は彼の親友でした。しかし、1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出したことによって、彼の運命は大きく変わることになります。秀吉のバテレン追放令の理由は、「キリシタンが神社仏閣を破壊したこと、仏像を破壊したこと、日本の伝統を乱す邪教を伝えたこと」でした。秀吉は、右近に使者を遣わし、以下のように言わせています。
「キリシタンは邪宗門であり、我が国には危険な宗教である。貴殿がこれを高槻、ならびに明石に扶植し、神社仏閣を破壊したことは、余の最も遺憾とする所である。かかる外来の宗教を一途に信奉するとは、わが国の神仏を冒涜することであると同時に、主君に対して不忠たらざるをえず。ゆえに、棄教して忠誠を証しするか、あるいは余との主従関係を断つか、いずれかその一つを選べ」
右近の秀吉に対する返答は、以下のものでした。
「余は、いかなる方法によっても、関白殿下に無礼の振舞をしたことはない。余が高槻、明石の人民をキリシタンにさせたのは、余の手柄である。余は、全世界に代えても、キリシタンの宗門と己が霊魂を捨てる意志がない。故に、領地並びに明石の所領六万石を即刻殿下に返上する。」ちなみに、彼は神社仏閣を破壊したことはないと反論しています。
秀吉は、再度右近の茶の湯の師匠である千利休(1522-1591)を遣わし、本意を迫りましたが、答えは変わりませんでした。右近は、決然として、信仰を守り抜き、一切の地位、富、栄華を捨てて、キリストに従う道を選びとるのです。その結果、彼は明石城主の地位を追われ、一時小豆島の小西行長にかくまわれたのち、前田藩主の前田利家に拾われ、知行一万五千石を与えられます。彼はその知行地の能登でも熱心に信仰を伝え、教会を建てます。どこにいっても、キリスト信仰を伝え、教会を建てることが、右近の使命でした。

「徳川家康の禁教令」

豊臣秀吉の伴天連追放令は、伴天連(=宣教師)やキリシタン大名を追放するという程度でしたが、1612年に発せられた禁教令は、キリシタンの信仰そのものを禁じ、日本国からキリシタンを一掃することを目的とした過酷なものでした。この禁教令によって、キリシタン大名の中でも、有馬晴信の子である有馬直純のように棄教する人々も多くでました。右近は、キリシタン追放令によって、前田藩を去り、フイリピンのマリラに追放されることになります。この時に問題となったのは、藩主前田利光の家老の息子、横田康玄に嫁いでいた右近の娘ルチアの去就でした。康玄は、「これからどうするのか」という右近の質問に対して、「妻と拙者は共同体でございますれば、妻が信徒であることを隠し、すなわち御禁制を無視しても、今まで通りの暮らしを続けていきたいと思います。」と答えています。康玄は、妻のルチアを愛していたのです。しかしルチアは、「ご主人様とは、離別し、父上と共に殉教の道を歩みたいと思います。」と述べ、右近は「それでいいのか」と聞くと、ルチアは「それでよいのでございます」ときっぱりと返答しています。ルチアは信仰を隠したり、棄教するよりも、たとえ夫と引き離されることがあったとしても、殉教の道を選択することを決意するのです。この娘の選択に対して、右近の妻でルチアの母であるジュスタ(洗礼名)は、「不憫ですが、今は主[神]に従うというあの子の決心を見事と存じます」とその思いを吐露しています。

「金沢から長崎までの行程」

金沢から京都までの雪野原を通る際に右近だけには、籠が用意されましたが、「それがしは、わが宗祖[イエス・キリスト]がなされたように、徒歩にて進みたいのです。これは信仰に基づく切なる願いです。」と籠を断り、孫や妻を励ましながら、一行の先頭に立って、深い雪の積もる北国の峠を越えて行きました。右近の脳裏には、十字架を負って、処刑場であるゴルゴダの丘に行かれるイエスの姿が焼き付いていたのかもしれません。右近一行は、琵琶湖湖畔の坂本にいったん落ち着き、そこからマニラ行の船の出る長崎に送られました。長崎では、親友の細川忠興が右近を訪ね、右近に「家康にゆるしを願い出てみよう」と言いましたが、右近はとりあわず、「家族と共に、イエスのために、短い余生をデウス[神]にささげる機会を失いたくない」と断っています。また右近が1914年10月に長崎からマニラに立つ一か月前に、細川忠興に宛てた書簡には、「彼[楠木正成]は、戦場に向かい、命を落として名を天下にあげ、是[右近]は、南海に赴き、命を懸けて名を流す」と記されてあります。楠正成は、戦死して、英雄視されたけれども、右近は、マニラに行き、彼の名前は流され、忘れ去られるというのです。これは、寂しさや負けおしみからの言葉ではなく、自分の名声を全く捨て去り、天国に名前が記されていることの喜びの詩ではないでしょうか、イエスは、弟子たちに対して、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカの福音書10:20)と語られました。

 「マニラでの死」

マニラに到着した右近たち一行は、マニラ市民に大歓迎で迎えられます。マニラ総督は、右近に生活のための経済援助を申し出ますが、右近は、「キリストのためにすべてを投げ捨てて来た者ですから、再び安易な生活に戻るつもりはまったくありません。私は貧しいキリストに倣いて、貧しく余命をすごしたい。」と丁重に断っています。右近はマニラに到着してしばらくして病気となり、マニラ到着40日後に息を引き取ります。高熱に伏している間、右近は「わが主を仰ぎ見ていく」と繰り返し語り、死ぬ前に家族に対して、「どんなことがあっても信仰を失わないように」と遺言を残しています。

 「右近の歴史的意義」

キリスト教迫害の時代の中で、権力に屈せず、身分、領地や石高、領民の支配といった世俗的な野心に全くとらわれることなく、キリストに従い通す生涯を全うしたことは、闇の中に輝く光でした。キリストに徹底的に生きた右近の生涯は、歴史に刻まれ、絶えず後の時代の人々にとって想起されることでしょう。彼は、頑張って、歯を食いしばって迫害に耐えたのではなく、キリストに従うことの喜びをかみしめていたのだと思います。以下のパウロの言葉は、高山右近にとっても、そのままあてはまる言葉です。
「私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくたと思っています。」(ピリピ書3:7~8)

 「参考文献」
海老沢有道『高山右近』(吉川弘文館、2009年)
岡田章雄『キリシタン大名』(教育社歴史新書、1977年)
加賀乙彦『高山右近』(講談社、1999年)
ルイス・フロイス『フロイス日本史2,4』(中公文庫、2012年)

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