聖書メッセージ39 孤独の中で語られる神

聖書メッセージ39

孤独の中で語られる神

 今から約5年前の2016年5月24日の朝日新聞の「サラリーマン」川柳には、人が孤独感を抱きながら、人生を送っているあり様をユーモラスに描いているものが多く見受けられました。三点だけ紹介します。

(1) 退職金 もらった瞬間、妻ドローン
(2) 君だけは おれのものだや、my number
  (マイ・ナンバー)
(3) カーナビよ、見放さないで、周辺で

(1) は、熟年離婚が増えていますが、金銭だけで繋がっている夫婦関係のもろさとわびしさが伝わってくるようです。離婚まで行かなくても、夫がなくなると、夫の支配から解放されて元気になり、水を得た魚のようになる奥さんも多いと聞きます。またコロナ禍でステイ・ホームを余儀なくされて、家族の絆が強まるはずなのに、逆に親子関係や夫婦喧嘩が深刻になり、社会問題になっている実態があります。

(2)は、「私のもの」と言えるような親密な相手は誰もいないどころか、自分の存在が12桁の数宇で表せるような、個性や人間性のないナンバーとなりはてていく悲哀が表されています。大学のキャンパスで知り合いの学生と会った時に、名前で呼ぶと、その学生は自分の事を覚えてくれていると実に喜んでくれます。しかし、学籍番号007君といったらどうでしょうか?

(3) は、知らない時に車でナビを頼りに行く時に、誰もが経験することです。ナビは、「目的地周辺です」と告げて終わりますが、しばしばそこから目的地まで行くのに時間がかかる場合が少なくありません。信頼していた人に、途中で見捨てられたと同じような思いになり、そこから焦燥感と不安が生まれてきます。私たちが、最も信頼している人に、あなたとはここまでですよ、人生最後までは一緒に行きませんよと言われたらどうでしょうか。

 昨年の2月からのコロナ感染が、約一年間続き、人間関係が遮断され、大学生もオンライン授業で巣ごもり化し、年末年始に帰省もできない状態です。例年以上に孤独と不安で悩んでいる人々が多く、若い人々の自殺が急増しています。人間の「人」の漢字は互いに助け合う事を意味し、「間」は、人は孤立しているのではなく、相互の間において生きていく存在である事を表しています。とすれば、コロナ感染は、人間が人間である事を否定する現象であるのでしょうか?孤独からの解放の道は全く存在しないのでしょうか?

 しかし「ピンチはチャンス」という言葉もあります。絶望する必要はありません。孤独の中から、人は神を求めることができます。創造者である神を求め、神と出会うことこそ、人間の人間たる所以です。人は孤独から反転をし、神に向かうのです。人の間で満ち足りている人が神に向かうことは滅多にありません。人が神に向かうのは、苦しい時の神頼みではなく、苦しい時にこそ、人は本心に目覚め、真理を求め、変わらないものを求めるのです。「人間」は、ギリシャ語ではアンスローポスですが、アンは「上」を、スローポスは「見る」を意します。つまり聖書によれば、人間は本来、神を仰いで、神との親しい交わりの中で生かされていく存在なのです。

 旧約聖書の詩篇42篇に、人生を涙して歩んでいる孤独な人の真実な姿が描かれています。

「鹿が谷川の流れをしたいあえぐように、
神よ。私の魂はあなたをしたいあえぎます。
私の魂は、神を、生ける神を求めて渇いています。——
わが魂よ、なぜおまえはうなだれているのか。
私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。」

 神は沈黙の神ではなく、語られる神です。神を求めるものに、必ず応えてくださ る神です。とりわけ、神は私たちひとりひとりを忘れることがなく、こよなく愛しておられます。私たちの惨めな状態を見て、途中で捨てられる神ではありません。たとえ私たちの家族が、友人が、私たちを忘れ、見捨てても、神が私たちを忘れることはありません。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。
自分の乳飲み子をあわれまないだろうか。
たとえ女たちが忘れても、この私は、あなたを忘れない。
見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ書49章15、16)

 比喩的な表現ですが、手のひらに 名前を刻むほどに、神は私たちの事をいつくしんでおられるのです。たとえ周りの人々が、私たちに冷たい視線をむけたり、仲間外れにしたとしても、神は「私の目にあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)と宣言されるのです。

 それでは、神が私たちを愛しておられることがリップサービスではないとしたら、その証拠は一体どこにあるのでしょうか? どうしたら私たちはこのコロナ禍にあって、神の愛を確信することができるでしょうか? 聖書は、この問題について次のように答えています。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。
ここに神の愛があるのです。」(1ヨハネ4:10)

 つまり、神は御自分の独り子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架につけるほどまでに、私たちを愛しておられるのです。それが神の愛の証拠です。神は聖なる義なるお方ですから罪を裁かなければなりません。しかし神は私たちの罪のすべてをイエス・キリストに負わせ、全く罪のない神の子イエス・キリストを裁くことによって、私たちに対する罪の赦しの道を開かれました。その神が私たちひとりひとりに、「私のもとに帰りなさい!!」と語られています。その語りかけにあなたはどのように応答されるでしょうか。次のイスラエルという言葉に、あなた自身の名前を入れて読んでみてください。

「イスラエルよ、あなたは私に忘れられることがない。
私はあなたの背きを雲のように、
あなたの罪をかすみのように消し去った。
私に帰れ。私があなたを贖った[罪を赦した]からだ。」(イザヤ書44:21〜22)

 私たちができる唯一のことは、神から離れた人生を送ってきた自分の罪を悔い改めて私たちのために十字架にかかり、三日目によみがえられたイエス・キリストを救い主として信じ、創造主である神に帰ることではないでしょうか。神へのUターンこそ、孤独からの解放と真の幸いの秘訣なのです。

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