聖書メッセージ33 新島襄と聖書

筆者は、京都の大学院時代、結婚して「哲学の道」の近くに住んでいました。銀閣寺から歩いてくると、南の終着点に若王子神社があり、その傍からの山道を登っていくと新島襄(1843-1890)と妻八重(1845-1932)のお墓があります。私の散歩道としてよく通ったものです。

前から疑問に思っていたことは、江戸幕藩体制から明治新政府への激動の時代に聖書に触れた新島襄が聖書をどのように読んでいたのかということです。というのも、筆者が最初に聖書に触れた時、「あなたの右のほおを打つ者には、左のほおも向けなさい」という言葉に象徴されるように、厳格な道徳的的書物であると感じ、自分にはできないと、読まなくなった経験があるからです。時期的には、前後するかもしれませんが、新島襄が聖書をどのように読んだかを4点に分けて考えたいと思います。私たちが、聖書を読む際の参考になればと思います。新島の手紙の現代語訳は、『現代語で読む新島襄』(丸善、2007年)からの引用です。

1 神が創造主であることを発見

新島襄は、1865年函館から脱国し、上海、香港を経由して、アメリカのボストンに到着します。当時としては国禁を犯す大胆な行為であり、捕まれば処刑は確実でした。また一旦外国に行ったならば、帰国することは絶望的でした。1860年に福沢諭吉が咸臨丸で米国に行ったのは、幕府の対米交渉を目的としていたので、合法的な渡米でした。新島の場合には、ペリーの黒船の浦賀来航に触発されて、1854年に密航しようとして失敗し、野山獄に幽閉された吉田松陰(1830-1859)の場合に近かったのではないでしょうか。

新島は、1965年10月、ボストンについてからハーデイ夫妻に「脱国の理由書」という手記を書き送っています。ハーデイ夫妻は、これを読んで、感銘をうけ、新島の養父母になることを決意します。この手記には、新島の聖書観が記されています。まだ彼が、箱館に行く前に、江戸で読んだ小雑誌が聖書に触れた最初の機会でした。その時の衝撃を、新島は次のように書き記しています。

「ある日、友人を訪ねると、彼の書斎で聖書を抜粋した小雑誌を見つけた。それはあるアメリカの宣教師が漢文で書いたもので、聖書の中の最も重要な出来事が記してあった。私はそれを彼から借り、夜に読んでみた。なぜなら聖書を読んでいることが知れると、幕府は家族全員をはりつけにするので、私は野蛮な国の掟を恐れていた。—そこで私はその本を置き、あたりを見回してからこう言った。 『神が天と地を創造された。誰が私を造ったのか、両親か、いや神である。— そう であるなら私は神に感謝し、神を信じ、神に対して正直にならなくてはならない』その時から私の心は英語の聖書を読みたいという思いに満たされたので、箱館に行 ってイギリス人かアメリカ人の聖書の教師を見つけようと決意した。」

また1867年3月29日に米国から新島が父親の民治に宛てた当てた手紙には、次のように記されています。この手紙は、新島がボストンの教会で洗礼を受けた翌年の手紙です。新島が聖書の神をどのように理解したかがよく解る文章です。
「 もし、病気であることがわかれば、神仏に願いをかけたり、まじないなど一切なさらないようお願いします。なぜなら日本の神仏は、木、鉄、銅、石、紙などで造られており、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口があっても食べられず、内に魂が入っていないことは明らかです。神仏はもとはこの世に生きていていた人間で、現在の私達と同じ人間です。神棚を崇め尊び、天照大神と唱えて、頭を下げて拝むようなことは愚かの極みで、ことさら説明しなくても、明らかです。」

新島は神のことを「天上独一真神」と書いていますが、これは、神とは唯一神であり、偶像とは異なる「真の神」であるという意味です。このように書くことは、キリスト教禁制の日本では、見つかれば危険なことでした。新島は1867年12月の弟双六への手紙で、旧新約聖書を読むことを勧め、「この書は日本では禁制ですが、上帝(造物主)に造られたわたしたちが必ず読まなければならない書です。このことは他人にしゃべってはいけません。」と書き記しています。

2 神が天父であることを発見

1985年8月29日に再訪したアメリカで書いた「私の青春時代」(21歳で脱国するまでの半生を描いた自伝的手記)の中で、新島は、脱国以前に江戸で読んだ書物を通して、神が父であることを発見し、家、藩、日本の拘束から解放されたと記しています。新島にとって神は、創造者である同時に、親しく交わることのできる人格的な存在であったのです。
「漢文で簡潔に書かれた聖書に基づく歴史書で神による 宇宙の創造という短い物語を読んだ時ほど、創造者が身近なものとして私の心に迫ってきたことはなかった。

私は、私たちが住んでいるこの世界が神の見えざる手により創造されたのであって、単なる偶然によるものでないことを知った。そして同じ歴史書において、神が『天父』とも呼ばれていることも知り、神に対していっそう畏敬の念を持つようになった。なぜならわたしにとって、神は単なる世界の創造主以上の存在として感じられたからであ。—私は、親子関係についての孔子の教えは、狭すぎて、間違っていることに初めて気がついた。その時私は、『僕はもはや両親のものではない。神のものだ』と心の中で言った。その瞬間、父の家に私を固くしばりつけてきた強い絆は、バラバラに断ち切られた。私は、その時、自分自身の 道を進まなければならないと感じた。私は地上の両親よりも『天父』に仕えなければならない。この新しい考えが私を力づけてくれたので、藩主を捨て、家や祖国を一時離れる決心ができた。」

3 神が愛であることを発見

新島は、香港で買った漢訳聖書をアメリカへの航海中に読み、ヨハネ3章16節のことば、「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは。御子を信じる 者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」に触れて感激します。彼は、この聖句を「新約聖書中の富士山」と考え、その時以来、この聖句を読むたびに、感激の涙を流したと言われています。「ひとり子」とはイエス・キリストのことであり、新島は、この経験を通してイエス・キリストを自分の罪のために死んでくださった救い主であると信じるようになります。すでにアメリカに行く前に、新島はイエス・キリストとの出会いを経験していたと思われます。

彼は、訪米後、教会に集うようになり、救いの確信が与えられ、1866年アンドヴァー神学校付き教会で洗礼を受けるようになります。その時に彼は、ハーデイ夫人に、次のような手紙を書いています。彼の当時の心境が伺われる内容です。
「ただいまの信仰を申し上げれば、キリストは、われらの罪のために死に給いし神の御子にて、我らはキリストによりてのみ救われるべきものであることを確信します。—–私は私をキリストから引き離すものは何もなきほど、キリスト自身に私自身固く結ばれています。」

新島は、日本に帰国する1874年11月の1ヶ月前に、アメリカンボード(宣教師派遣団体)の大会で演説して、次のように自分の信仰について語っています。

「十字架上のキリストは絶えずこの世に呼びかけておられます。十字架上のキリスト は、私たちに向かって罪の恐ろしさを宣言しておられます。なぜなら、神の御子が人類の罪のために十字架に釘ずけられたからです。罪にまみれた人類がそれを見て救われるようにと、至高者の御子が木の上にあげられたということは、ああ、何という驚くべき出来事だったのでしょうか。」

4 神が「主」であることを発見

新島の信仰は、イエス・キリストが救い主であるだけではなく、生涯従うべき主人(ギリシャ語でキュリオス)であることにありました。1世紀の初代教会のクリスチャンにとって、イエス・キリストを「主」と告白することは、生死を賭けた問題でした。彼らは、ローマ皇帝を「主」と告白するか、神の子イエス・キリストを「主」と告白するかの二者択一を迫られていたのです。新島にとっても、イエス・キリストを「主」と告白することは、自分の人生を神の手に委ね、神の導きに従うことを意味していました。

新島は1872年から翌年にかけて、米国公使森有礼(1847-1889)の依頼を受けて、岩倉使節団の文部理事官田中不二麿に協力して、米国や欧州の教育視察に同行していました。田中は、新島の能力と人柄に惚れ込み、日本に帰国したら、政府のために働くことを強く求めます。森有礼もまた、新島に同じ要請をしています。しかし彼は、自分の名声や栄達よりも、政府から自由に、在野でキリストの福音のために働くことを選択します。政府の役人になるか、神の導きに従って、日本人の魂のために宣教の道を選ぶか、新島の生涯にとっての分岐点でした。新島は、1872年12月16日にハーデイ氏に宛てた手紙で、この点について次のように述べています。

「私は、自分がますます神にとらわれているのを実感します。主の御用のために働かなければ、幸せにはなりません。—–私が第一に望むことは、自分の十字架を負って主の道にしたがうことです。それが、私にとっては最も幸せな道であり、最良の選択であることと信じます。」

新島は、1874年11月に、日本に帰国を果たします。すでに日本では1873年2月24日にキリシタン禁制の高札が撤去され、信教の自由が認められていましたが、キリスト教に対する人々の偏見や迫害には根強いものがありました。そして新島は病の人でした。彼は米国でも、日本でもたびたび心臓の病に苦しめられました。自分の弱さを痛感すする時に、新島の目は神の恵みに注がれました。こうした逆境の中で、新島は「自分の十字架を負い、主の道に従い」、キリストの福音を宣べ伝えると同時に、聖書の精神に根ざした教育を目指して、同志社英学校を設立に奔走します。これが新島の死後、同志社大学に発展して、今日に至っています。

新島は、共に十字架を負う伴侶として山本覚馬の妹八重と1876年1月に結婚式をあげます。新島にとって結婚の目的は共に十字架を負って神のために働くことでした。彼は、1875年11月23日のハーデイ夫人宛の手紙で、八重について次のように紹介しています。

「彼女はあることをなすのが自分の務めだといったん確信すると、もう誰をも恐れません。—もちろん、彼女は美人ではありません。しかし、私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人だということです。私には、それで十分です。」

新島は、八重がクリスチャンの新島と結婚したことで今まで勤めていた女学校を辞めさせられた時に、そのことを残念がらず、「いいのよ、これで福音の真理を学ぶ時間がもっととれるわ」と語っていたことを喜びながら伝えています。新島にとって、共に十字架を担うことは、彼が官職の道を断念したように、必要ならいつでも失うことを覚悟することでもありました。

新島は 病気の保養のために滞在していたアメリカのクリフトン・スプリングスから1885年2月1日の八重への手紙で次のように書き送っています。

「この身を主キリストに捧げ、かつわが愛する日本に捧げたる襄の妻となられたので、なにとぞ夫の志と、その望みを察せられ、—また何事も広く愛の心を持ってなし、—己を愛する者のために祈るのみならず、己の敵のためにも熱心に祈り、またその人々の心が改まるまで尽くされれば、神は必ずあなたの身体も魂も守られるでしょう。」

新島もまたこの言葉の通りの生涯を全うし、病気療養をしていた大磯の地で、1890年1月23日永眠しました。享年46歳でした。1月27日に、同志社の学生も含めて4000 人が参加した葬儀が行われ、遺体は、若王子の山頂に土葬されます。墓碑銘は、勝海舟の筆によるものでした。

大津集会では毎週聖書を学んでいます。聖書の真髄に触れることができれば幸いです。皆様のご来訪を心からお待ちしています。 文責 古賀敬太

参考文献
『現代語で読む新島襄』( 丸善、2007年)
森中章光『新島襄先生の生涯』(不二出版、1900年)

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