聖書メッセージ22「福沢諭吉と聖書ー真の神様」
第22回「福沢諭吉と聖書ー真の神様」
皆さんは、慶應義塾の創始者である福沢諭吉(1835-1901)のことを聞いたことがあると思います。「天は人の上に人を造らず、人の下に人をつくらず」。この言葉は福沢諭吉『学問のすすめ』の一節です。これは、神の前に、人は生れながら貴賎の差別はなく、平等であることを意味しています。当時の日本の身分制社会を打破し、身分に束縛されない個人の尊厳を示す言葉です。
明治の啓蒙思想家福沢諭吉は、キリスト教に対しては、好意的ではなく、どちらかといえば批判的であったといわれています。しかし、彼の心の中から神に対する思いは、消えることはありませんでした。福沢は、明治四年に長男一太郎と次男捨次郎に、守るべき教えとして「日々の教え」を与えています。その第八には、「世の中には父母ほど良きものはなし。父母よりも親切なるものはなし。父母の長く生きて丈夫なるは、子供の願うところなれども、今日は生きて、明日は死ぬるもわからず。父母が生きるか知るかはゴッド(God,神様)の心次第である。ゴッドは、父母をこしらえ、父母を生かし、また父母を死なせることもあるべし。天地万物なにもかも、ゴッドの造らざるものなし。子供の時より、ゴッドのありがたきを知り、ゴッドの心に従うものなり」とあります。
また「日々の教え第二編」の「第一」には、「てんとうさまを恐れ、これを敬い、その心に従うべし。ただし、ここでいうてんとうさまとは、日輪のことにあらず。西洋の言葉にて、ゴッド(God)という、日本語の言葉に翻訳すれば、造物主というものなり。」とあります。ここでは、天地の造物主=創造主である神を恐れ、敬うことが生きる基本であることが語られているのです。創造主とは、聖書の示すキリスト教の神であり、唯一神です。
この「日々の教え」は、子供たちに対して、福沢の思いを超えて、大きな影響を及ぼしたようです。明治十九年七月三十一日の長男一太郎宛福沢書簡によれば、一太郎が福沢にイエス・キリストを信じたいという希望を語ったことに対して、「自由にするように」と返答しています。長男一太郎については、妹の志立タキは、兄一太郎と自分の信仰について、次のように述べています。
「兄(長男一太郎)が、『西洋の文学をやるならバイブルを読まなきゃ』といってくれまして、それからバイブルをよく読みました。……日本が良くなっていくにつれて、日本人がみっともないことをしなければと思って心配しています。……私はクリスチャンの教えを定規にしています。日本という国はわけがわからぬ国でございましょう。それは、神様がいないのですから。」
戦後東大の総長をつとめた南原繁は、志立タキの信仰は、「純粋な魂の新生を経験した信仰」であると述べています。実に福沢の思いをはるかに超えて、聖書の真理は子供たちの心の奥深くに刻み込まれ、魂の回心をもたらしました。そしてそれは、同時に、日本という国の将来、世界の動向を見る確固たる視点を提供したのです。
参考文献
小泉仰『福沢諭吉の信仰観』(慶應義塾大学出版会、2002年)
『南原繁著作集10巻』(岩波書店、1973年)
大津集会では、毎週日曜日にバイブルの真理を学んでいます。是非教会のドアをノックして、聖書に触れてくださるよう願っています。 文責 古賀敬太