聖書メッセージ21「星の王子さまと聖書」
第21回「星の王子さまと聖書」
アメリカのケネディ大統領は、1961年の大統領就任演説で、歴史に残る名演説をおこないました。それは、「同胞であるアメリカの皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えましょう。」というものでした。
国家と個人の関係だけではなく、個人と個人の関係においても、他人は自分にとって何をしてくれるだろう、他人は自分にとってどれだけ利用価値があるだろうと自己中心的な思いで生きている人が大多数です。自分が他人に対して何ができるかと真剣に考える人は、本当に少数です。自分は愛されたいとは思いますが、自分に遠い人はもちろんのこと、自分に近い人々も一生涯愛し続けようとは考えないのです。
サンテグジュベリの「星の王子さま」(原題 Le Petit Prince、小さな王子さま)では、王子さまが様々な惑星に行っていろいろな大人と出会う光景が出てきます。そこには人を支配したがる王様、人の称賛のみを求めている虚栄心の強い男、いやなことを忘れるためにお酒に溺れている男、もうけることだけを考えていつもそろばんをはじいている実業家など、すべて自分のことしか考えていない大人の世界が赤裸々に描かれています。「星の王子さま」の眼を通して描かれる世界は、「異様」であり、「おとなって本当にどうかしている」といわざるをえない世界です。それが、私たちの住んでいる世界と私たちの偽らざる姿なのですが、実は「異様」であり「奇妙」であり、転倒した世界なのです。何かが狂っており、逸脱した世界なのです。それは、人生にとって大事なことを忘れている世界です。大人は、それを「異様」とも思わないほどに堕落しきっているのです。本当のものが見えなくなってしまっています。
星の王子さまは、地球という惑星に行き、そこで狐と親しくなります。狐は星の王子様と別れ際に「ほら、ぼくの秘密。これはいとも単純なものだよ。心で見ない限り、ものごとはよく見えない。大事なことは、目で見えないものだよ」と人生の秘密を明かします。
「星の王子さま」を読むと、聖書の一節を思い起こします。それは、「私たちは、見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)ということばです。ものが見える世界、つまり、人間の虚栄心、支配欲、功名心、自己利益の追求、酒への逃避は、はかないものであり、いつか消えてしまうような不安定なものです。人から称賛されていても、いつ転落して、軽蔑と嫌悪の冷たい目にさらされるか、戦々恐々としています。人の評判を得ようと外面だけは立派に行動しますが、心では泣いている場合もあります。様々な衣を着て自分を飾っていても、自分のむなしさを覆い隠すことはできないのです。人を支配していると思って得意がっていても、実は逆に支配されている自分の姿に気付き、唖然とします。真実の人間関係は支配と服従の関係にはなく、支配する者は相手の反発や抵抗に怯えているのです。営々として蓄えてきた財産が天災や事故、そして事業の失敗によって一瞬にして無に帰することもあるでしょう。しかし、幸いなことにそうした状況の只中で、目にみえないもの、聖書でいう神の存在、そして神の愛は、私たちが心の目を開けば、いつでも変わらず、私たち一人一人に示されるのです。
聖書には、「私たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)という言葉が記されてあります。私が大好きなことばです。これは、神が、御子イエス・キリストをこの地上に遣わし、この世界の醜い現実を作り出している私たちのすべての罪をイエス・キリストに負わせ、身代わりとして罰せられたことを意味しています。神の罪に対する怒りは、神の御子キリストが十字架で血を流して死ぬことによってしかなだめられないというのです。このキリストの十字架の犠牲の愛の故に、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じる者は、罪を赦され、イエス・キリストの愛に生きる新しい人生に入ることができると聖書は私たちに約束しています。“ここに愛があるのです。”(This is Love)
大津キリスト集会では、永遠のベストセラーである聖書から人生の目的や希望について考えています。是非、教会の扉をノックされることを心からお待ちしています。