第32回 希望( hope、έλπίϛ、エルピス)
第32回 希望( hope、έλπίϛ、エルピス)
現在NHKの朝のドラマで放映されている「アンパン」には、「絶望の隣には、希望がある」というメッセージが流されています。希望こそは、誰しもが追い求めているものです。
「希望」という言葉で思い出すのは、ギリシャ神話の「パンドラの箱」です。「パンドラ」(ギリシャ語で「すべての贈り物」の意味)の箱が開けられると、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪といったありとあらゆる災いが飛び出してきましたが、「希望」(エルピス)だけが、残っていたというものです。
実はこの神話には二つの解釈があります。一つは、「希望」は、それが出てくると人々に必ず失望を与え、幻想を振りまくので、災いの中でも最も大きな災いである、したがってそれが箱の中に留まったことは、まだ幸いであり、人は希望なしに人生を諦観して生きることが大事であるいう解釈です。人は、根拠のない希望を抱くがゆえに、それだけ深い失望の淵に沈むことになるというのです。しかし、人は、「希望」なくして生きていくことができるのでしょうか。 「パンドラの箱」のもう一つの解釈は、ありとあらゆる災いが生まれ、世界が苦難に満ちているとしても、それを克服する「希望」は必ず現れるというものです。筆者としては、この解釈を支持したいと思います。そして、その真の希望は、聖書の中に記されてあります。
「 聖書が語る希望」
希望は、ギリシャ語でエルピスで、動詞形、待ち望むは、エルピゾーです。神は「希望の神」(ローマ書15:13)であり、信じるものに確かな希望を与えてくださる方です。希望は、特に新約聖書の書簡の中で格変化を含めて、53回出てきます。
私たちは、ハンサムな年収の高い人と結婚したい、幸せな家庭を築きたい、生きがいのある仕事をみつけたいという希望を持っても、必ずしもその希望が満たされるとは限りません、期待が多いだけに、実現しなかった場合にそれだけ失望も大きく、期待しなかった方が良かったと思うことがしばしばです。しかし聖書が語る希望は、失望に終わらない希望です。それは確実に実現するものに対する希望であり、神の約束に対する希望です。不確実で不透明なものに対する希望ではなく、100%確実な希望です。当時のギリシャの文化では、残念ながら絶望に終わらない希望は知られていませんでした。実はキリスト教の誕生によって、初めて知られるようになりました。あるギリシャ哲学の専門家は、「根本的な宗教的態度としての生ける希望は、ギリシャ文化では知られていなかった。」と語っています。それは、無償の愛、犠牲の愛をしめす「アガペー」がギリシャ世界で知られていなかったと同様です。パウロは、ローマ人の手紙中で、「この希望(エルピス)は失望に終わることがありません。(ローマ書5:3〜5)と書き記しています。
「アブラハムの希望」
アブラハムは、彼も彼の妻も100歳近くなった時に、子供が生まれるという約束を神から与えられた時に、一時は疑いましたが、その後神の約束を信じて揺れ動くことはありませんでした。彼の希望は神の約束に基づいていたからです。聖書は、「アブラハムは望みえない時に望みを抱いて信じた」(ローマ4:18)と記してのち、彼の信仰について次のように述べています。
「アブラハムはおよそ100歳になり、自分のからだがすでに死んだと同然であること、またサラの胎が死んでいるこちを認めても、その信仰は弱りませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、返って信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束されたことを実行する力がある、と確信していました。」(ローマ4:19〜21)
アブラハムの希望がなぜ失望に終わらなかったのか、それは、彼の希望が神の約束に基づいていたからです。
「希望がなければ人生は流されてしまう」
それでは、なぜ私たちの人生にとって希望が必要なのでしょうか。わたしたちの人生が時代や社会の流れに飲まれてしまうのを根底において防御しているのが希望です。希望があると私たちは困難や試練を乗り越えることができます。聖書では希望は、アンカー(錨)に例えられています。ヘブル人の手紙には「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、魂の錨にようなもの」(ヘブル6:19)とあります。どんなに突風が吹いても、錨がきちんと降ろされていれば、船は漂流することはありません。
「希望は、目に見えるものではない。」
それでは、希望の対象とは何でしょうか。目に見える希望は希望ではありません。現実が全く暗く、悪い方向に行っていたとしても、それを超えたところに希望はあります。聖書には、「私たちは、この望みと共に救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、誰が望むでしょうか。私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。」(ローマ書8:24〜25)とあります。この望みの対象は、一時的なものではなく、永遠に変わらない神の約束です。神に約束に対する信仰によって、希望が生み出されます。
「救いの希望」
希望の中で最も大事なものは、救いの希望です。パウロは、まだ救われていない異邦人の状態を「イエス・キリストから遠く離れ、—この世にあって望みもなく神もない者たち」(エペソ2:13)と書き、神なき者がイエス・キリストの血潮が流されて、神と和解させられ、近いものとされたと書いています。またパウロは、「救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいます。」(1テサロニケ5:8)と記しています。またコロサイ人への手紙において、パウロは、「福音の望み(エルピス)から外れることなく、信仰にとどまらなければなりません」(コロサイ1:23)と語っています。「福音の望み」とは、イエスの十字架の死によって、罪が赦され、神様との和解がなしとげられた救いを意味しています。またパウロは、イエス・キリストの復活によって与えられる希望について書いています。「神はご自身の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを与えてくださいました」と書いています。更にパウロはキリストの再臨を待ち望む希望について語っています。イエスの十字架、復活、そして再臨に対する希望が、聖書が語っている真の希望です。テサロニケのクリスチャンたちはイエス・キリストが再臨されることを今か今かと持ち望み、迫害を耐えていました。パウロは、彼らの「私たちの主イエス・キリストに対する望み(έλπίδος)に支えられた忍耐」(Ⅰテサロニケ1:3)を神に感謝しています。
「希望はイエス・キリスト」
詰まるところ聖書は、希望は「イエス・キリスト」ご自身であると言っています。パウロは、テモテへの手紙の中で、「私たちの救い主である神と、私たちの望みであるイエス・キリストの命令によって使徒となったパウロ」(1テモテ1:1)と自己紹介しています。またコロサイ書中には、「キリストの栄光の望み」((1:27)と記されています。変わらない希望、失望しない希望は、イエス・キリストにあります。人生の錨であるイエス・キリストを信じ、従い、この方に根差す時に、私たちは、希望に満ち溢れ、世の激流に流されずに、確信を持って人生を歩んでいくことができます。