聖書メッセージ25「名前で呼びかけられる神」

第25回「名前で呼びかけられる神」


最近、子供を虐待して死なせたり、車に放置して帰ってみたら死んでいたという悲惨な事例が続いています。自分の子供をいつくしみ、愛情を注いで養い育てるというのが本来の母のイメージだと思います。
しかし、その母といえども完璧ではなく、自分の欲望を優先して子供を犠牲にしたり、そこまでいかなくても子育てで悩み、疲れ果ててしまって育児放棄をするすることが現実にはあるのです。こうした現実に私たちが目を覆うことは許されません。しかし、悲惨な現実を見据えながらも、希望を抱くこともできるのです。闇の中にありながらも、闇の中に輝く光を見出すこともできるのです。人間の愛には弱さがあり、利己心があり、限界がありますが、神の愛にはこのような限界は全くありません。人が神の愛に触れた時に、変わることもできるのです。

聖書は、神の愛について、母親の愛との比較で次のよう記しています。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとえ女たちが忘れても、この私は、あなたを忘れない。
見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ。
あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」
(イザヤ49章15~17節)

神は、たとえ母親が子供たちのことを忘れることがあっても、忘れないというのです。私たちは、高齢になると、人の名前を忘れてしまいがちです。それを防ぐ方法は、ノートに出会った人の名前や特徴を書きしるしておくことです。神のてのひらは、一人一人の名前と特性が書き記されているノートのようなものではないでしょうか。

私は、教師として学生と過した経験から確実に言えることは、たくさんの学生がいる中で一人の学生に名前で呼びかける時に、その学生は目を輝かせ、喜ぶということです。自分がone of them(群衆の中の一人)ではないと感じるのです。「先生、私の事覚えていてくれるの」というのです。単に名前を覚えてもらっているということではなく、自分の人生に心を配っている人がいることを知るのです。しかし、時には近寄ってきて、「先生、私のこと覚えている。私の名前、忘れたのでは?」と疑い深そうに話しかける学生もいます。一人の魂を忘れず、絶えず覚えて、心を砕くことは愛の現れですが、こうした言葉を聞くと、教師としてその名に値しない自分の姿を恥じることが多いのです。他者に対する愛のまなざし、心を砕く姿勢がなければ、人は心を開こうとしません。どんなに説得しても無理なのです。人がその人に心を開き、たとえ厳しい言葉にも耳を傾けるのは、自分が受け入れられ、愛されていると思った時なのです。

聖書には、神が私たちをどう見ておられ、どのように心を砕いておられるかについて、次のように表現しています。
“だが今、主(神様)はこう言われる。
ヤコブよ、あなたを創造した方、
イスラエルよ、あなたを形造った方が。
「恐れるな、私はあなたを贖ったからだ。
私はあなたの名を呼んだ。
(I summoned you by name).私はあなたのもの。
——私の目には、あなたは高価で尊い。
私はあなたを愛している。」 (イザヤ43章1,4節)

神は、旧約聖書のヤコブやイスラエルだけではなく、神によっていのちを与えられ、生かされている私たちひとりひとりにも、同じように個人的に名前を呼んで語りかけておられるのです。

私は、2011年3月11日に発生した東日本対震災の時に、一人の若い女性がとった行動を忘れることができません。それは、暗闇の中に輝く光のようでありました。

遠藤未希さん。(当時24歳) 震災の前年7月に結婚したばかりの女性で、幸福の絶頂にあったと思います。彼女は、南三陸町の防災対策庁舎2階にある危機管理部で働いており、津波の発生に関して、無線機で“大津波が予想されます。急いで高台に避難してください。”と恐怖で声をふるわせながらも最後まで町民に対する呼びかけをやめなかったそうです。彼女のこの行動によって、1万7700人の人口の約半数の人々が、高台に避難することができ、命は助かりましたが、遠藤さん自身は逃げ遅れて、津波に飲まれて亡くなられたのです。彼女の死をかけた犠牲の行為によって、実に1万人ほどの町民が助かりました。遠藤さんは、単に自分の任務に忠実であったというだけではなく、未曽有の災害の中にあっても1万7700万人の町民のことに心をくだいておられたのではないでしょうか。

すでに書きましたように聖書は、私たちは一人ではない、孤独ではない、私たちを尊いとみなし、永遠に愛しておられる方がおられ、その方が私たちに名前で呼びかけておられると記しています。この方は、私たちの創造者で、私たちのいのちを支配しておられる方であり、この地球の70億の人々の生涯に心を砕いておられます。そして最も大事なことは、この方が私たちを愛するあまり、ひとり子イエス・キリストをこの地上に遣わし、全く罪のないイエス・キリストに私たちの罪のすべてを負わせ、私たちの身代わりとして、十字架で裁かれたという歴史的事実です。すでに引用したイザヤ書に「私はあなたを贖った」とあるように、イエス・キリストを信じる人々に、罪の赦し(贖い)と「永遠のいのち」を約束しておられます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世(私たちひとりひとり)を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)

皆さんも、人知をはるかに超えた神の愛を求められませんか。大津集会では、皆様の来訪を心から歓迎いたします。

文責  古賀 敬太

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