第25回 「聖書入門ーキーワードで読む」

第二十五回 幸いな(blessed , μακαρίοϛ,マカリオス)

普通私たちが幸福を意味する英語はhappiness を用い、幸いなという形容詞はhappyを用います。しかしhappyと関連する動詞happen はたまたま~するという偶然性を意味しています。したがってhappy はたまたま状況に応じて幸いであるだけで、困難な状況に置かれるとunhappyになるという偶然性が強いものです。
しかし聖書が示している幸福とは、一時的ではなく、永遠の幸福です。「幸い」という言葉が最も用いられているのが、山上の垂訓でのイエスの言葉で、七福と呼ばれているものです。その一つを紹介します。

「山上の垂訓」

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイの福音書5:3)。
 これは、自分が心の貧しいものであることを知っている者は幸いですという意味ですが、ここではhappy という言葉は用いておらず、blessed (祝福されている)が用いられています。ギリシャ語では、μακάρίοί(マカリオイ)です。他、山上の垂訓でマカリオイは、「悲しむ者は幸いです」(4節)、「柔和な者は幸いです」(5節)、「義に飢え渇く者は幸いです」(6節)、「あわれみ深い者は幸いです。(7節)、「心のきよい者は幸いです」(8節)、「平和をつくる者は幸いです。」(9節)、「義のために迫害されている者は幸いです」(10節)で用いられています。この文脈での「幸い」は、人間の心の状態というよりは、神によって喜ばれ、神によって祝福されるという、神との関係を意味しています。ー

「罪赦されている」

パウロは、ダビデの詩篇の言葉を引用し、幸いな人とは、神の前に義とされ、罪赦されている人と」、次のように言っています。
 「同じようにダビデも、行いに関わりなく、神が義とお認めになる人の幸い(blessedness,μακαρίσμόν)を、次のように言っています。『幸いなことよ。(blessed,μακάρίοί(不法を赦され、罪をおおわれた人たち、幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。』(ローマ書4:6~8)
パウロは、ここで詩篇32篇1~2節のダビデのことばを引用しています。

「主を待ち望むこと」

また聖書は主を待ち望むことが「幸い」であると述べています。
「祝福に満ちた(blessed,μακαρίαν)望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを(appearing,έπίφάνείαν)を待ち望むように教えています。」(テトスへの手紙2:13)
 なおこの「現れ」(έπίφάνείαν、エピファネイアン)は、テトス書以外に2テモテ4:1と4;8に用いられています。それは「来臨」(パル―シヤ)と同様に、主が再び来られることを意味しています。

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