聖書メッセージ 82|ヴィクトール・ユーゴー(1802〜1885)の『レ・ミゼラヴル』

ヴィクトール・ユーゴー(1802〜1885)の『レ・ミゼラヴル』

ージャン・バルジャンの回心ー

「レ・ミゼラブル」

私は今年1月2日に、2012年英国で製作されたミュージカル映画『レ・ミゼラブル』をテレビで鑑賞し、大きな感動を覚えました。これは、ビクトール・ユーゴーの長編小説『レ・ミゼラブル』(Les Misérables、1862)を映画化したものです。訳すと「惨めな人々」という意味です。日本では、以前は『ああ無常』という翻訳で知られていました。主人公は、1795年貧しい姉の子供たちのために一切れのパンを盗み、フランスのトゥーロンで19年間も獄中生活を送ったジャン・バルジャンです。一切れのパンを盗んで、19年とは現在では考えられない残酷な刑罰ですが、投獄中に4度脱獄を試みたことが、異例の刑期の長さになりました。仮釈放された後も彼の黄色い旅券には、「非常に危険な人物」という烙印が押されており、彼の過去が新しい歩みを苦しめていました。彼は、社会や人々に対して憎しみを抱いて出所します。ユーゴーは、「魂の動乱に比べたら、一都市の暴動がなんであろう?一個人の方が群衆よりも大きな深層である」(4ー611)と書いていますが、まさに『レ・ミゼラブル』は、ジャン・バルジャンの魂の深淵の軌跡を描いたものです。深淵にあるのは、憎悪、孤独、恐怖、殺意、そして良心の葛藤です。

「ジャン・バルジャンの人生を変えたもの」

ジャン・バルジャンの魂を変えるきっかけとなったのが、ミリエル司教との出会いでした。ミリエル司教は、愛と祈りの人で、ジャン・バルジャンが彼の所にやってきた1815年にはすでに75歳になっていました。ジャン・バルジャンは、仮出所して、宿屋や居酒屋などに食事と宿を求めたのに、前科者であるがゆえに断られ、最後の手段として、教会に一夜の宿を求めます。この時彼は46歳でした。彼は、司教によって暖かく迎えられ、「お前」ではなく、「あなた」という言葉をかけられたことに感動します。監獄では24601号と囚人番号で呼ばれ、動物以下の存在として扱われ、辱められてきたので、尊厳を持って接せられたことに狂喜したのです。司教は「嘆いている者や、罪を償う者の上に身をかがめて」慰める人で、権力や名声とは全く無縁な人でした。司教は、彼に「ここは、私の家ではありません。イエス・キリストの家です。このドアは、入ってくる人の名前を訊きません。悩みがあるかどうかを訊きます。あなたは苦しんでいる。飢えと渇きを持っている。よく来てくれましたね」(1ー146)と語ります。あたかもイエス・キリストが福音書で罪人や苦しんでいる人々を迎え、愛されたことを彷彿とさせる言葉です。司教は彼に「あなたは、悲しみの場所から出て来た。だか、お聞きなさい。天国では、百人の正しい人たちの白い服よりも、悔い改めた一人の罪人の涙に濡れた顔の方が多くの喜びを受けるでしょう。」(1-147)と語りかけます。
 しかしジャン・バルジャンは、教会を去る際に銀の食器を盗みます。彼はいわば親切を窃盗で報いたのです。しかし、ミリエル司教は、彼を捕まえ、連行してきた三人の憲兵に対し「銀の食器は彼にあげた物だ」と言った上に、二本の銀の燭台をも提供します。ジャン・バルジャンにとっては驚きのことばでした。彼はこのような愛に触れたことがなかったのです。ジャン・バルジャンが司教の家を去る時に、司教が語った言葉が印象的で、彼の今後の人生を物語っています。
「私の兄弟のジャン・ヴァルジャンよ、あなたはもう悪の味方ではなく、善の味方です。あなたの魂を私は買います。暗い考えや、破滅の精神から引き離して、あなたの魂を神に捧げます。」(1ー201)
この司教の言葉の背後には、イエス・キリストが十字架で血を流され、イエスを信じる人々を罪と破壊の支配から解放し、キリストの支配のもとに買い取られたという救いの宣言が込められてあります。司教の家を去ったジャン・バルジャンは、自分の心の深淵を示され、本心に立ち返り、悔い改めに導かれます。小説では、「俺はみじめな男だ!その時心が裂けて、彼は泣き出した。19年来、彼が泣くのは、これがはじめてであった。」(1-210)と記されてあります。ジャン・バルジャンの回心の瞬間です。
 ユーゴーは、これ以降の彼の内面的な戦いについて、次のように書いています。それは彼の魂の内部における神と悪魔の戦いでした。
「 彼の良心は、こうして自分の前に置かれた二人の人間を、司教とジャン・バルジャンとを交互に見つめた。後者を溶かすには、どうしても前者が必要であた。—–司教は彼の目には、ますます大きくなって光輝き、ジャン・ヴァルジャンは次第に小さくなって消えていった。しばらくすると、それはもう影にすぎず、急に消えてしまった。司教だけが残った。彼がこのみじめな男の魂全体を、素晴らしい輝きで満たしたのである。」(1ー215)
  司教という言葉で象徴されているのが神であるイエス・キリストであり、ジャン・バルジャンで象徴されているのが罪であり、悪魔です。魂における両者の戦いにおいて、キリストが勝利し、彼の心を支配していくようになります。それはまた彼の心の中で、憎悪に愛と正義が勝利していく戦いでした。そして彼は、これから様々な試練を経ながらも、神に対する信仰と人に対する愛に生きる人生を歩むようになります。ここでは、彼の二つの試練を紹介します。

「 ジャン・バルジャンとジャベール」

 一つの試練は、彼を執拗に追跡するた警視ジャヴエールの存在です。どこに逃げてもジャベールは、ジャン・バルジャンを追いかけて来ます。実はジャン・バルジャンの釈放は仮釈放でしたが、彼は仮釈放の許可書を破り捨てて、逃走していたのです。彼は、マドレーヌと名前を変えて、モントルイユ・シュル・メールでガラス工場を経営して利益を上げ、それを市民のために使い、市民から尊敬され市長になります。しかし、その町に赴任した警視ジャヴェールはジャン・バルジャンの素性に疑問を抱き、彼を執拗に追い回し、一度は捕え、逮捕します。その後、脱獄したジャン・バルジャンはパリに逃げますが、ジャベールはジャン・バルジャンをパリでも追跡します。ジャベールは法と秩序の番人として行動し、自分を正義の使者であるという強い自負心を持っていました。しかし、パリで青年の革命的な秘密結社に密偵として潜伏した時、スパイであることが発覚し、殺されそうになります。なんとその時に彼を助け、逃したのがジャン・バルジャンでした。シャベールが殺されれば、ジャン・バルジャンの恐怖は消え去るのですが、彼はシャベールを助けるのです。このジャン・バルジャンの敵をも愛する行為にジャヴェールは衝撃を受け、自らの生涯の使命としてきた法と秩序の守り手という価値観がガタガタと音を立てて崩れていき、彼は絶望のあまり、一人、セーヌ川に身を投げます。ユーゴーはジャベールの内面の葛藤を、「不可抗力で一直線に突進して、神に衝突して砕けた」魂の脱線であり、「機関車にもダマスカスへの道があるとは!」(5-276)と表現しています。これは、機関車にようにひたすらクリスチャンを迫害することに熱心であったパウロがダマスカスでイエスに出会い、圧倒されて、地に投げ出されることを意味しています。ただパウロとの違いは、パウロがイエス・キリストを信じ、回心したのに対して、シャベールは良心の葛藤に耐えきれず、自殺したことです。

「ジャン・バルジャンとコゼット」

二つ目の試練は、ジャン・バルジャンがモントルイユ・シュル・メールで母親ファンティーヌの依頼を受けて、彼女の死後養子にして愛し育てた孤児コゼットの存在です。ジャン・バルジャンは、コゼットを愛し、彼女と一緒にいる時に安らぎと幸福感を味わいました。ジャン・バルジャンとコゼットは精神的に一つに結ばれ、彼にとってコゼットは生きがいそのものでした。しかしそこに若くて魅力的なマリウスが登場してきます。ジャン・バルジャンは、コゼットがマリウスと愛し合うことによって、コゼットを失うという状況に晒され、マリウスに対して強い嫉妬を感じます。コゼットを失うことは、ジャン・バルジャンにとって、すべてを失うことを意味しました。ジャン・バルジャンがパリのリュクサンブール公園でマリウスを見たときの彼の心の深淵について、ユーゴーは次にように書いています。
「この事態の底にあの青年がいること、一切はあいつのせいだということがはっきりしてから、彼ジャン・ヴァルジャンは自分の心の中を見つめた。すると更生した人間であり、あれほど自分の心を培ってきた人間であり、人生のすべて、悲惨のすべて、不幸のすべてを愛に変えることに、あれほどの努力をしてきた人間であるジャン・ヴァルジャンが、そこに見たものは「憎悪』という化け物であった。」(4-624)
 しかし、ジャン・バルジャンは、自分の憎悪に打ち勝ちます。彼は、革命秘密集団に参加し、バリケードの戦いで瀕死の重症を負ったマリウスを見捨てず、追っ手から逃れるためになんと下水道の中をマリウスを背負って、汚水と闇の中を歩き続け、彼を助け出したのです。まさにマリウスにとってジャン・バルジャンは命の恩人でした。そして彼は、マリウスとコゼットの結婚を心から祝福し、自分の全財産60万フランをコゼットとマリウスに与えるのです。
 実はマリウスは自分がジャン・バルジャンによって助けられたことを知りませんでした。そして一時、ジャン・バルジャンの過去を知り、彼をコゼットから引き離そうとしましたが、彼が自分の命の恩人であることを知って、驚愕します。そして彼は、死にそうになっていたジャン・バルジャンをコゼットと一緒に訪ねた時に、次のようにコゼットに言っています。

「この方が僕に何をしてくださったのか、コゼット?僕の命を救ってくださったのだ。それ以上のことをしてくださったのだ。君を僕にくださったのだ。そして僕を救い、君を僕にくださった後、コゼット、自分をどうなさったのか? 犠牲にされたのだ。——あのバリケード、あの下水道、あの熱火、あの汚水、この方はその全てを、僕のために、コゼット、君のために、超えられたのだ! あらゆる死を僕から遠ざけ、ご自分で引き受けて、僕を運んでくださったのだ、あらゆる勇気、あらゆる徳、あらゆるヒロイズムあらゆる聖性、この方はそれらすべてをそなえていらっしゃる! 」(5-513)

まさに、イエス・キリストの十字架の犠牲を想起させ、それをジャン・バルジャンに重ね合わせるような表現です。ジャン・バルジャンは、臨終のときにあたかもミリエル司教が立ち会っているかのように感じ、コゼットとマリウスに看取られて、平安の中で息を引き取ります。

「『レ・ミゼラブル』とは誰のこと」

ユーゴの小説の題名「レ・ミゼラブル」(惨めな人々)とは一体誰のことを指しているのでしょうか。これには様々な解釈があります。主な解釈は、社会から抑圧され、差別され、経済的にも困窮している人々のことです。ジャン・バルジャンやファンティーヌを初め、社会の下層の人々が『レ・ミゼラブル』にはたくさん登場してきます。しかしユーゴーが本当に言いたかった『レ・ミゼラブル』とは、政治的・経済的に見捨てられた「惨めな人々」だけではなく、否それ以上に憎しみや嫉妬の奴隷となり、孤独で人生に真の喜びと希望を見い出しえない人々のことではないでしょうか。ジャン・バルジャンは、すでに見たように、「俺は惨めな男だ!」と何度も叫んでいます。ユーゴーの『レ、ミゼラブル』には、たしかにナポレオン支配、王政復古、1830年の7月革命、そして1833年の6月暴動という政治の激動が描かれていますが、ユーゴーが本当に描きたかったのは、魂の深層における激動でした。そして、「惨めなジャン・バルジャン」を生まれ変わらせ、新たな生涯に導いたものこそ、司教の愛であり、それを可能にしたキリストの十字架の犠牲の愛でした。この愛の力によって、ジャン・バルジャンは変えられたのです。

「聖書のことば」

“ だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました、”(2コリント5:17)
“ しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。”(ローマ書5:8)

参考文献
①ビクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』(全5巻)(佐藤朔訳、新潮文庫、)
翻訳は5巻の構成で、引用は例えば1巻100頁であれば(1-100)と表記しています。
② 映画、2012年 イギリス制作、ミュージカル映画 『レミゼラブル』

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