勝海舟(1823〜1899)と聖書ー最晩年の信仰告白
勝海舟というと1867年、西郷隆盛(1828-1877)と会談して、江戸城を無血開城に導いた人物として知られています。また維新後は日清戦争に反対したり、足尾鉱毒事件と戦ったりして藩閥政治の悪弊を容赦なく批判してきました。また海舟は、坂本龍馬(1836-1867)や陸奥宗光(1844-1897)にも大きな影響を及ぼした開明的な思想家でもありました。しかし、その海舟が、聖書に触れ、クリスチャンになるところまで来ていたことを知っている人は少ないのではないでしょうか。愛読されている勝海舟の『氷川清話』には聖書やキリスト教の話は一切出てこないからです。ここでは、守部喜雅『勝海舟 最後の告白』(フォレストブックス、2011年)とクララ・ホイットニー『クララの明治日記(上)(下)(講談社、1976年)、勝部真長『勝海舟』を典拠として、勝海舟と聖書、またキリスト教との関係に迫ってみたいと思います。
「長崎海軍伝習所でのカッテンディーケとの出会い」
勝海舟は、1855年オランダから航海術の教師を招いて開かれた長崎海軍伝習所において、幕府の命令により、艦長心得として、航海術を学びます。ここで海舟は1857年に長崎に来たオランダ人教師で航海術や測量術などを講義していたカッテンディーケ(1816-1866)を通して、キリスト教に触れます。守部は、カッテンディーケについて、次のように述べています。
「彼は、海軍の航海術に才能を発揮しただけではありませんでした。オランダ改革派教会に属するクリスチャンとして、勤務地では教会の礼拝に忠実に出席し、伝道にも熱心でした。オランダ改革派教会は、当時、すでにアメリカにも進出しており、一八五九(安政六)年に開港した横浜と長崎に、それぞれ、ヘボン、ブラウン、シモンズ、そしてフルベッキと、四人の宣教師がアメリカから来日していますが、ブラウン、シモンズ、フルベッキの三人は、いずれもアメリカのオランダ改革派教会の宣教師として派遣されています。また二年後に来日したジェームズ・バラも同じ宣教団体から派遣されてきた宣教師でした。」(守部、24頁)
「咸臨丸で米国へ」
勝海舟は1860年、福沢諭吉(1835-1901)と一緒に咸臨丸(かんりんまる)で米国に行き、サンフランシスコで毎週、プロテスタントの教会に参加していました。彼は、『新訂海舟座談』で以下のように記しています。
「アー、西洋では、いつも礼賛堂(教会)へ行ったよ。大層、褒められたよ。世話をしてくれたおやじが極熱心だったから、その息子などと一処に行くとネ、ホーリー、ゴースト、ホーリー、ゴーストで固めて祈っているよ。」(『新訂 海舟座談』、95頁 )ホーリー、ゴースト(holy ghost)とは神の霊という意味です。
「ホイットニー家と勝海舟」
勝海舟とキリスト教の関係を知る上で、ホイットニー家との交流は欠かすことができません。キリスト教が解禁となった翌年の1875年8月、ウイリアム・ホイットニーが、妻アンナ、娘クララと一緒に来日します。ホイットニーは、森有礼(1849-1889)が東京に開設される商法講習所の所長兼教師として日本に招聘した人物です。しかし彼が商法講習所から解雇され、経済的に苦境に陥っていた時にホイットニー家を財政的に援助したのが海舟です。また1878年にホイットニー一家は、赤坂氷川町の海舟の敷地内に住むことを許され、家族同然の親しい交わりが生まれます。クララ・ホイットニー『クララの明治日記』はその第一級の資料です。『クララの明治日記』を通して、勝海舟一家とホイトニー家の関係を見てみましょう。アンナはユグノーの系譜を受け継ぐ敬虔なクリスチャンで、伝道熱心でした。
ホイットニー家の長男のウィリスがペンシルバニア大学に入学するため、一時米国に帰国しますが、1882年11月再度来日し、勝邸の敷地内の元の家に住むようになります。勝海舟の長女で内田夫人となった夢子、そして二女で疋田夫人となった孝子もアンナの信仰の感化を受けて、キリストを信じ、洗礼を受けています。 また後にクララと結婚する三男の梅太郎もクリスチャンになります。さらに勝夫人も、信仰に対して非常に好意を持っていました。
クララは、1883年5月31日の日記において、次のように書いています。
「津田氏が、来られてこんな話をされた。親睦会で雄弁に説教をされた大阪の宮川氏が勝さ んを訪ねたところ、宗教については、ホイットニー夫人の宗教以外のものはいやだといわれたというのだ。勝さんは日本人の間で暮らした母の生活ぶりを見、彼女の死をも見て来られた。母はその生と死において、真の宗教とは如何なるものかを実証した。子供たちも今また同じ道を歩んでいる。宮川氏は求められるまま、終日勝さんと話し合われたという。何と喜ばしいことであろう!津田氏は勝さんは未だ受け入れてはおられないが、やがてはクリスチャンになられるだろうと言われた。」(クララ、227頁)
津田仙(1837-1908)は、当時頻繁にホイットニー家に出入りをしていた有名なクリスチャンで、津田梅子の父、宮川氏とは熊本バンド出身の宮川経輝(2857-1936)で、当時大阪の教会で牧会していた人物です。
続けて、クララは次のように書いています。
「母はどんなに熱心に勝氏のために祈ったことであろう。私たちが以前ここにいた時、毎日曜日の朝、教会へ行く前に一時間、勝氏のために祈りを捧げていた。その時はこのような熱烈な祈りが無駄になり得ようはずはないと思った。もしこの大きな影響力を持つ方がクリスチャンになられたら、私たちにどのような喜びがもたらされることか、また私たちにどのような慰めがもたらされることか。」(クララ、227頁)
「アンナの死と墓碑銘」
アンナは、1883年4月17日、末期ガンで天に召されました。享年49歳です。アンナの墓は、東京都立青山霊園にあります。アンナの墓碑銘は勝海舟の筆によるものです。その墓碑には、漢訳聖書の二つの言葉が刻まれてあります。表には、「骸化土 霊帰天 ホイットニー氏親友勝安房拝誌」とあります。これは、伝道者の書2章7節のことばで、「ちりはもとあった地に帰り、霊は下さった神に帰る」です。アンナの肉体は地に帰りましたが、その霊は神のもとに、天国に帰ったことを意味しています。裏には、ハバクク書の2章4節の言葉「義人必由信而得世」が記されてあります。これは「義人は信仰によって生きる」と邦訳聖書では訳されています。
この漢訳聖書の二つの言葉は、勝海舟の心の中にも刻まれていたのではないでしょうか。
「勝海舟の信仰」
ところで勝海舟はイエスを救い主として受け入れたのでしょうか。詳しいことはよくわかりません。しかしアンナの長男で、海舟の敷地の一角に赤坂病院を建てた医師のウィリーは、勝海舟の救いのために祈っていました。勝海舟の伝記を記したE・W・クラークの『カツ・アワー日本のビスマルク』によると、クララがクラーク宛に書いた書簡には、ウィリー・ホイットニーが最晩年の勝海舟を訪問した時のことが記されてあります。
「勝氏がなくなる2週間ほど前だったと思います。兄のウィリスは、勝氏の口から、直接『私はキリストを信じる』と、はっきりと聞いたと言います。それを知って、私の心は歓喜に満たされました。勝氏は神の国に近づいたのです。彼はお寺に葬られましたが、最後の日々は、もう仏教徒ではなかったのです。」(守部、106頁)
しかし、死の間際にイエス・キリストを信じたとしても、どうして長い間キリスト教に接していた海舟が死の間際に至るまでキリスト信者にならなかったのでしょうか。1873年にキリスト教の禁教令が撤廃された後は、クリスチャンになることは可能であったはずです。また勝海舟には、新島襄、津田仙初め多くのキリスト教指導者の知人・友人がいました。
その原因としては、当時の日本社会の構造的問題が介在していたように思われます。つまり、海舟には沢山の 妾(めかけ)がおり、そのうち二人は女中として勝邸に住んでいました。海舟の身の世話をしたり、勝家の料台所を切り盛りしていたのは女中たちでした。クララと結婚した三男の梅太郎は長崎で海舟が恋に落ちた女性との間に生まれた子です。また、海舟の三女の逸子は、女中に産ませた子でした。勝部真長直『勝海舟』(下)の「海舟をめぐる女性たち」(434-440頁)に記されてあります。
キリスト教の教えは、一夫一婦制で、姦淫や不品行を厳しく禁じるものですので、当時 妾を持っていた軍人、政治家、資産家にとっては、キリスト信仰に入ることは大きなハードルでした。
勝海舟は、1899年1月19日に赤坂氷川町で77歳の生涯を終えました。しかし、たとえ死の直前といえども、海舟が信仰告白したことは、彼の波乱万丈の人生の総決算を示すものとして注目に値する出来事ではないでしょうか。
海舟は青山霊園に葬られますが、墓石には「海舟」とだけあり、一切の肩書きや法名はありませんでした。
参考文献 守部喜雅『勝海舟 最後の告白』(フォレストブックス、2011年)
E・W・クラーク『カツ・アワー日本のビスマルク』(1904年)
クララ・ホイットニー『クララの明治日記(上)(下)(講談社、1976年)
『新訂 海舟座談』(巌本善治編、岩波書店、1983年)
服部真長『勝海舟』(上巻)(下巻)(PHP研究所、1992年)